奈良の寺(2) 薬師寺。

民主大敗。衆参、完全ねじれ状態に。国民がそう望んだんだな、たぶん。
W杯決勝戦、スペインがオランダを下す。細いところに通すパス、鮮やかなものだ。誰だったか暫く前、解説者が、日本もそれを目指すべきだ、と言っていたが、無茶を言っちゃいけない。そんなことをしたら、すべてのボールは相手ボールになってしまう。いや、単に、いわゆるパスサッカーが、あまり好きではないだけだが。
奈良の寺、唐招提寺からゆっくりと歩いて薬師寺へ。

與楽門から白鳳伽藍に入る。左は東塔、右に金堂。
薬師寺は、西暦680年、天武天皇により発願、697年、持統天皇によって本尊開眼、698年、文武天皇により堂宇完成。元は飛鳥の地にあった。
それが、1300年前、710年(和銅3年)の平城遷都によって、現在の地に移された、という。その堂塔伽藍、我国随一の美しさであったそうだ。ところが、享禄元年(1528年)、兵火によって東塔を除くすべての諸堂が灰燼に帰す。
だから、薬師寺の堂塔の中で、白鳳時代のものは、この東塔のみ。右側の金堂は、昭和51年、焼失から450年ほど経った後に、復興されたものである。
その立役者が、薬師寺124代管主の高田好胤だ。
この人、小さい頃から前管主の橋本凝胤に引き取られ、厳しく育てられたそうだが、何よりも経営の才があった。人あたりもよかった。40代前半で管主の座につくと、金堂復興の為に全国行脚を始めた。写経勧進、ということを考えついた。般若心経の写経勧進、1巻1000円、というアイデアを思いつき、実行した。昭和43年のことだ。
当時、金堂の復興には、約10億の予算が必要だった。1巻1000円だと、100万巻の写経勧進が必要になる。高田好胤、それを成しとげた。で、昭和51年、金堂は復興された。いや、たいした人だ。

白鳳時代の姿を唯一残す東塔。
東塔は、この秋から約10年をかけて、解体修理に入ることになっている。それで今、10月末まで、平城遷都1300年記念として、東塔特別開扉が行われている。初層の西面扉を開け、内陣の天井絵などを見ることができる。
東塔は、三重の塔である。一見、六重に見えるが、それぞれの屋根に、裳階(もこし)がついている為である。薬師寺の堂塔、いずれにも裳階がついている。それにしても、1300年の時を経たこの三重の東塔、美しい。近寄ると、大分傷みも見えるが。
この東塔について、和辻哲郎はこう言っている。
<三重の屋根の一々に短かい裳層をつけて、恰も大小伸縮した六層の屋根が重なってゐるやうに、輪郭の線の変化を複雑にしてゐる。何となく異国的な感じがあるのはそのためであらう。大膽に破調を加へたあの力強い統一は、確かに我国の塔婆の一般形式にみられない珍奇な美しさを印象する>、と。
裳階をつけた堂塔は、少なかったかな。そんなこともないはずだが、と思い考えるが、思い出せない。このところ、忘れることが多いからな。残念だが。

高田好胤、昭和56年には、この西塔も復興した。453年ぶりに。
1巻1000円の写経勧進が、200万巻に達したんだ。
やはり、裳階がついた三重の塔だ。
そういえば、もう随分前、20年ぐらい前かもしれないが、一度だけ、高田好胤の姿を見かけたことがある。薬師寺の境内で。アッ高田好胤だ、とすぐ分かった。テレビなどで、よく見知った顔だから、すぐ分かった。高田好胤、10人ばかりの人を従えササッと通り過ぎて行った。精力的な感じを受けた。

高田好胤が最初に復興した、二重二閣の金堂。やはり、裳階がついている。
龍宮造り、というそうだ。私の個人的な趣味からいえば、ウーン、チョットな、という感覚であるが、まあ1000年後ぐらいになれば、枯れた美しさが出てくるのだろう。
この再建された金堂を見ていない、90年以上前の和辻哲郎は、金堂についてこう書いている。
<この寺の縁起によると裳層のついてゐたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もまたさうであったらしい。大小伸縮した四層の屋根の大金堂は、東塔の印象から推しても、かなり特殊な美しさのものであったらう>(『古寺巡禮』、以下、和辻の言葉は、すべてこの書から)、と。
今現在、美しいかどうかは、個々人の感覚の問題であるが、和辻のいう”かなり特殊な”、ということは、そうである。
それはともかく、この金堂の中に、薬師三尊像が祀られている。
中央に薬師如来、右に日光菩薩、左に月光菩薩の薬師三尊が。
実は、私は今まで、この漆黒の仏さまの美しさが、よく解からなかった。白鳳時代の仏さまなのに、黒光りして、やけに輝いているようで。しかし、今回は、違った印象を持った。
黒く光っているのではないんだ。滑らかではないんだ。よく見ると、でこぼこもある。鈍く光っているんだ。薬師三尊、今までに何度もお目にかかっているが、このような感じを受けたのは初めてだ。
そう言えば、和辻哲郎は、この中央の薬師如来について、こう言っている。
<この本尊の雄大で豊麗な、柔かさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののやうな美しい姿は、自分の眼で見て感ずるほかに、何とも云ひあらはしやうのないものである>、と。
昔から、何度も見てきて、その美しさが分からなかった私、今になってその美しさ、多少は分かるようになった、ということか。

さほど咲いてはいなかったが、薬師寺にも、あちこちに蓮の鉢植えがあった。
唐招提寺と違い、鉢に、薬師寺の名は入っていなかったが。

これも、高田好胤が写経勧進で造った、玄奘三蔵院伽藍の玄奘塔。
後ろの建物は、大唐西域壁画館である。
平山郁夫が、30年の歳月をかけて完成させた長さ49メートルに及ぶ、7場面13枚の壁画を納めている。
単に、納めている、というものではない。壁画そのものを、本尊としている。「絵身舎利」というそうだ。

玄奘三蔵院伽藍から、白鳳伽藍を見る。
左に見えるのは東塔、右は西塔、中央に見える屋根は金堂である。
つかこうへいが死んだ。
彼の芝居は観ていない。映画の『蒲田行進曲』を観ただけだ。銀ちゃんとヤス。平田満のヤス、階段落ち、ずいぶん前に観た映画。面白うて、やがて哀しき、という物語だったような気がする。
62歳、肺がん。葬式、戒名、想い出の会、すべて不要。遺灰は、日本と韓国の間の対馬あたりに撒いてくれ、との遺言。洒落た死に方の一典型だな。現実には、なかなかこうはいかないが。