6月15日。

1960年の6月15日から50年。
50年前のこの日、安保粉砕、岸内閣打倒を目指す全学連、国会内へ突入した。正門前の機動隊との衝突で、東大生、樺美智子が死んだ。
偶然だが、その前年、皇太子妃となった女性と同じ名を持つ。名前ばかりでなく、その顔つきもよく似ていた。皇太子妃は、著名企業の社長令嬢だったが、国会正門前で死んだ東大生は、大学教授の娘だった。共に、高貴、上品という印象を受けた。
安保自体は、6月23日に発効、その後、岸内閣は、総辞職する。
岸信介の後を継いで自民党総裁、首相となったのは、大蔵官僚出身の池田勇人。その秋、社会党委員長・浅沼稲次郎は、池田の目の前で、右翼の少年、山口二矢に刺殺される。日本は、政治の季節から経済の季節へ徐々に切り替わっていく。街中には、西田佐知子がけだるく歌う「アカシアの雨がやむ時」が流れていた。
1960年、昭和35年は、そういう年であり、その6月15日は、その後の日本を決めたエポックメーキングな日であった。
その日から、ちょうど50年が経った。
昨日、一躍日本のヒーローとなった本田圭佑は、もちろん影も形もなく、その本田の左足に、自らの監督人生を賭けた指揮官・岡田武史も、まだ3つか4つのころ。10日ほど前、全日本の指揮官となった菅直人にしても、まだ中学生ぐらいだったのじゃないか。そう思うと50年、アッという間だったなと思える年月も、やはり、長い時間だったんだ、とも思う。
その50年前の今日、6月15日、私は、結核療養所に入っていた。外の騒乱、喧噪をよそに、くる日もくる日も病院のベッドの上で、碁を打ち、花札を引く、というヤワな日々を送っていた。
翌年、私が大学に入った時には、安保の大きな波が過ぎた後、デモはあったが、その対象も小ぶりなものだった。ノンポリではあったが、それでも、オレは安保に遅れたな、との思いがあった。私たちの世代、右であれ左であれノンポリであれ、皆、50年前のこの日のことを憶えているだろう。
それにしても昨日今日、相撲協会、あたふたしている。琴光喜の野球賭博から始まって。暴力団がらみの野球賭博は、論外である。罪に問われて当然であろう。しかし、花札やゴルフまで含めてどうこう、と言うのは如何なものか、とも思う。仲間内での花札やゴルフでは、誰でもが多少は賭けているのが普通であろう。
私が結核療養所に入っていた頃、花札も引いていたが、相撲や野球のトトカルチョもやっていた。病院内に胴元もいた。何年どころか、十何年入院している人も多くいた。その人たちが既得権益を持っていた。
もちろん賭け金は安いものであった。琴光喜の何百万とか何千万とかと言われているものとは、較べるべくもないものである。時代も違うが、その置かれている状況もまったく異なるが。
結核療養所は、年単位の病院である。その頃は、どんなに短くても1年は入る。集団生活である。相撲の世界も、同じ仲間の集団生活。集団生活を長く送る世界には、何らかの賭けごとは付きものだ、と言えば怒られるかな。
1960年の6月15日とは、少しずれた。
50年前の6月15日は、国会突入と樺美智子。今年の6月15日は、サッカーと琴光喜。50年経った今の日本、平和なんだろうな、おそらく。