仲間の死。

夜、学生時代のサークル仲間のOから電話があった。島谷が死んだ、という。
島谷晃も同じサークル仲間。50年近い付きあいになる。美研、美術研究会というサークルである。絵の好きな連中の集まりではあるが、普通の大学なので、卒業するとほとんどの人は、勤め人になるか、国に帰り家業を継ぐ。それが当たり前であった。
しかし、島谷は、卒業後今日まで、勤めることもなく、画家として、絵筆一本で食ってきた。えらい、と思う。本人の才能や努力もあったろうが、このような男と一緒になった夫人の支えも並大抵ではなかったろう、と思う。
若い頃、アムステルダムで銅版画の修業を1年間行っている。また、80年代には、文化庁芸術家在外研修員として1年間ニューヨークで研修している。そのせいもあろう、平面のタブロウばかりでなく、銅版画やリトグラフの作品も多く、立体作品も為した。屏風やお寺の天井絵、壁画も残している。
今、それらの作品は、町田市立国際版画美術館や池田20世紀美術館、西念寺、勤行寺、妙福寺といったお寺、さらには、フランス国立図書館、スリナム国立美術館、などに収蔵されている。
渋沢龍彦、倉橋由美子、立松和平、などの雑誌や新聞の連載小説の挿絵も描いていた。
島谷晃は、鳥の絵描き、鳥になった画家、と言われていた。
学生時代は、孔雀の羽根のような絵を描いていたが、いつの頃からか、フクロウをモチーフとした絵を多く描くようになった。
もうずいぶん昔であるが、ある日突然、島谷から荷物が送られてきた。開けてみると、リトグラフが1枚入っていた。額装し、居間に懸けてある。今、写真に撮った。だいぶボケているが、これである。

タイトルは、「Green New Yorker」。やはり、フクロウがモチーフとなっている。
改めて見てみると、学生時代の島谷のタブロウのあちこちが、どこかに残っているようにも感じられる。
島谷は、私の2年後輩、まだ60代半ばである。若い。最後に会ったのは、去年の暮。サークル仲間10数人との忘年会であった。いつものようにワーワーと言って飲んでいた。
仲間の死、残念で、悲しい。