主従二人(序章、続き)。

奥への旅、細道への旅へ早く出たくって、気もそぞろの芭蕉は、股引の破れを繕ったり、笠の紐をつけかえたり、三里にお灸をすえたり、と準備を整える。松島の月はどういうものだろうか、なんてことが、まず頭に浮かぶ。
それまで住んでいた庵は、人に売り渡し、弟子であり、江戸でのパトロンでもある、杉風の別荘に移る。
その折り、
     草の戸も住替る代ぞひなの家
を発句とした表八句を、庵の柱に懸けておく。
山本健吉は、まず初めに記されたこの句の意を、<住み棄てた草庵も、新しい住人の住居となって、折しも桃の節供のころとて、私のような隠遁者と違い、はなやかに雛を飾る家になっていることだろうよ>、と書いている。また、<これが新しい主への挨拶句であり、・・・・・これが芭蕉の、新しい一家へのささやかな祝福の言葉だった>、とも。とても解かりやすい。
ところが、岩波文庫の『おくのほそ道』の校注者・萩原恭男は、その注釈の中で、この句について、こう書いている。
<雛人形が飾られ、すっかり華やいだ草庵を見て、人生流転の実相を感得した句>、と。
また、嵐山光三郎も、<この句については、ほとんどの訳が詠嘆調になっている>、とした後、<自分がいたわびしい庵に、はなやかな雛飾りがなされたその変わりようが、ズキリと芭蕉の胸を射て、その痛みは隠しようがない>(『芭蕉紀行』)、と記し、こうも書いている。
<はなやかであったものが滅びるのではなく、滅びていたものが派手に変貌する「反転した孤絶感」がある>、とも。
萩原恭男も嵐山光三郎も共に、山本健吉のような詠嘆調の訳とは、異なった見方をしている。なぜか。
彼ら2人の眼力にもよるが、蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』にそう出ているからでもあろう。『奥細道菅菰抄』については、昨年末、12月14日の「主従二人」の番外篇に書いた。時間のあるお方は、そちらの方も見てください。
それはそれとして、『菅菰抄』には、こう書かれている。
<頃は二月末にて、上巳のせちに近き故に、雛を商ふもの、翁の明庵をかりて売物を入、置所となせしによりて、此吟ありと云。勿論雛の家箱は、・・・・・年々其収蔵の定なきものなれば、年年歳歳花相似、歳歳年年人不同、の心ばえにて、人生の常なきを感想の唫なるべし>、と。
なるほど、”人生流転も”、”反転した孤絶感”も、その源はここにあるんだ。”常なき人生”、そればかりではなく、芭蕉が売り払った庵が、雛人形商人の倉庫となっていたから、なんて話まで拾いあげているのにも驚く。蓑笠庵梨一、尋常一様の男じゃない、只者ではない、ということは解かっているが。
もちろん、碩学・山本健吉も『菅菰抄』は、当然読んでいる。「奥の細道」を読む人でこの書に目を通さない人はいない、といわれているんだから。それでも山本は、この句を、”人生の常なき云々”と読まず、”新しい住人への挨拶句”とした。確信犯なんだ、山本は。しかし、確信犯である、その山本も、やはり、只者ではない、と思える。
明日、5月16日は、旧暦では3月27日、芭蕉と曽良の主従二人、いよいよ深川を出立する。