主従二人(序章)。

いつ頃だったのか、なんてことは忘れたが、おそらく、中学か高校の国語の時間で習ったのであろう、
<春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて むらさきだちたる雲の・・・>(枕草子)、とか、
<をとこもすなる日記といふもの をむなもしてみむとてするなり・・・>(土佐日記)、とか、
<つれづれなるまヽに 日ぐらし硯に向かひて 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく・・・>(徒然草)、とか、
<ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは・・・>(方丈記)、とか、
その他にもまだあるが、その冒頭、書き出しの部分だけは、憶えているが、あとはみな忘れた、というものがある。
中には、そんなことはない、私は、その後もキチンと言える、という人もおられようが、如何に日本が誇る古典であろうとも、だいたいは心地よい書き出しのフレーズは、かろうじて憶えているが、その後などは忘れてしまうものである。私も、もちろん、そうである。
「奥の細道」もそうであろう。冒頭の、<月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・>、との。
その後は、正確には憶えていないが、芭蕉、こんなことを言っていたな、という人は多いであろう。
一生を舟の上で暮らす船頭も、馬のくつわをとる馬子も、その日その日が旅であり、旅を棲み家としている、とか、古人も旅に死んだ人が多い、とか、ということが続いていたな、と思い、
さらに、いつの頃からか、千切れ雲のように、風にまかせての漂白の旅への思いがやまず、道祖神から誘われているようで、どうにも落ちついていられない、とも、と。
「奥の細道」自体、芭蕉は、練りに練って創りあげているが、このようなことが記されている書き出し、いわば”序”にあたる部分は、時間をかけて練りあげられたものである。
芭蕉が曽良を伴い、奥への旅、細道への旅をしたのは、元禄2年である。だが、定稿本である素龍写本が成ったのは、元禄7年。私の副読本である、山本健吉の『奥の細道』の中で、尾形仂(以前の東京教育大学教授を務めた近世文学者、昨年亡くなった)は、芭蕉が「奥の細道」の執筆にかかっていたのは、元禄6年であったろう、と書いている。
尾形は、こうも書いている。
<素龍清書本は、(旧暦)元禄7年5月、芭蕉最後の旅の際、その頭陀に携行されて、兄松尾半左衛門に贈られた。この年春のころからしきりに死の近きを予感しつつあった芭蕉は、これを自己の生涯の総決算と考え、死後の形見とするつもりだったのではあるまいか>、と。
形見云々は、措くとしても、芭蕉は、1年余に渉って、原稿用紙にすれば数十枚にも満たない、「奥の細道」の原稿を推敲に推敲を重ね、練りあげていたことになる。僅か数百字の書き出しの部分、墨を入れては消し、入れては消し、を繰り返していたのだろう。
それだからこそ、あの小気味好い、リズミカルなフレーズが続く冒頭部が成ったのであろう。
眠くなった。主従二人の序章、続きは明日にしよう。