日米友好の志、弥増す人。

昨日は、若葉、若木のことを書いたが、今日は、老木のことを書く。
今日日中、Yさんのお宅にお邪魔した。昭和2年の生まれ、83歳になられる。杖をついてはおられるが、さまざまな知識、経験をその体内に蓄えた老木である。
戦前、陸軍士官学校に学ばれた。終戦直前の昭和20年7月末、満洲へ移動の為、舞鶴から出航直後アメリカの機雷に触れ、退避、生き延びられた、という。「私たちの同期は、生き残ったのが多いが、2期上の人たちは、半分は特攻隊などで死にました」、と言われる。
戦後は、慶應を出た後、ビジネスの世界に身を置かれるが、24〜5年前、活動の拠点をアメリカに移された。私が面識を得たのは、その直後ぐらいだった。こういう催しがあるので来ませんか、というようなお誘いを受け、何度か行った。当時お住まいだったシカゴのお宅にも2〜3度泊めていただいた。
その後も、年に何度か日本へ来るたびにお会いしていたが、今日は1年ぶりの再会であった。今は、居を移されたニュージャージーのお宅と、成田と東京の中間の町に求められた日本のお宅との間を、年に3〜4回程度往復しているという。83歳、物忘れが多くなったというが、以前と変わらず意気軒昂である。特に、日米間の社会活動に。
Yさん、ビジネスはビジネスとし、17〜8年前からユニセフのコンサルタントとして、日本からの募金を、ある期間に1億ドル集め、ユニセフから表彰されたり、アメリカの郵政公社から表彰されたりしていた。
だが、このところは、日米間の友好親善の試みをさまざまやっておられる。2〜3年前には、ジョン万次郎ゆかりのマサチューセッツ州フェアヘブンの家を日野原重明博士と共に買い取り保存する、というプロジェクトにも中心的役割を果たされた。
今日聞いた話では、「日米友好親善の歴史回顧の旅」、ということを企画されているという。ジョン万次郎ばかりでなく、明治期アメリカに渡った新渡戸稲造、新島襄、津田梅子、内村鑑三などの旧跡を訪ねる旅とのこと。
陸軍士官学校で、職業軍人としての教育を受け、戦後、かっての敵国アメリカで活動したからこそ、日米間の友好親善の思い、その志、弥増すのだろう。
何年か前、まだブッシュ政権の時代だったがお会いしたら、何日か前、マンハッタンでのブッシュの戦争に反対するデモに参加してきました、と話していた。戦前派というか、戦中派というか、いずれにしろ、戦争を知る世代だからこその対応であろう。
核廃絶への思いも強い。広島の原爆資料館へも、度々訪れている。「オバマをハグして迎えよう」、ということも提唱されている。
日米ばかりでなく、世界平和への思いは強い。これも、戦争の実態を知る世代だからであろう。
杖をついて歩くようにはなったが、世界の平和、なかんずく日米友好親善の志、弥増す人である。