山村御流の桜。

華道、生け花の流派は、池坊を筆頭に、何百とあるそうだ。あまり知られていないものを合わせると、何千とあるらしい。
仮に、生け花を、花を素材に用いた表現手段と規定すると、それこそ一人一派、何万どころか何十万という流派があることになる。
山村御流は、奈良の円照寺を家元とする、伝統ある生け花の流派である。
円照寺は、寛永17年(1640年)、後水尾天皇の第一皇女・文智女王(内親王)によって開山された門跡寺院、尼寺である。中宮寺、法華寺と共に、大和三門跡のひとつである。
代々の御門跡が、山村御流の家元を引き継ぎ、今に至っているという。その流儀、いわばコンセプトは、「花は野にあるように」、ということ。簡潔、明解であるが故に、かえって奥深い。
今日までのはずだが、高島屋日本橋店の正面を入ったすぐのところに、こういう典雅な生け花作品が展示されていた。

薄い幕を通して店内の明かりが透けて見えるが、左右の苔の生えているところには、アセビ(あしび、馬酔木)などの常緑樹が植えられている。
そして、中央部の下、木の切り株の前に桜が見える。
これら全てで、ひとつの作品が構成されているのだろう。

桜は、淡いピンクの八重桜。その前に配された鮮やかな色の葉は、鳴子百合。後ろの切り株は、杉。
杉には、(石見銀山、島根県)、と付されていた。石見銀山から伐り出した杉の切り株、ということだろうか。それはともかく、
八重の桜花は、一重に比べ、妖艶なあでやかさはあるが、どこかボテッとしたところもある、というのが一般的である。それが、この桜花には感じられない。八重ではあるが、静謐で奥ゆかしい感じを受ける。
永年受け継いできた技、というものであろうか。それとも、永年に渉り育まれてきた花を生かす心、というものだろうか。
400年近くに渉り、連綿と伝えられてきたという「花は野にあるように」、というコンセプトと、どう繋がるのかは、私には解からないが。