みんな凡人なのだから。

今日の結びの一番、白鵬は、格の違いを見せつけた。
途中までは、先場所と同じような展開になった。先場所は、把瑠都の左巻きかえが上手くいき、把瑠都が初めて勝ったが、今日は、そうはいかなかった。把瑠都が、巻きかえにきたところを、両回しを引きつけた白鵬、一気に寄りたて、寄り切った。番付けの格、ということばかりでなく、相撲の格の違い、ということを感じたな。
これで、把瑠都の大関昇進には、13勝が必要になる。千秋楽まであと4日、一番しか落とせない。エストニアでも、相撲熱が高まり、把瑠都の大関取りに期待しているようだが、把瑠都の昇進確率、今日の敗戦で、6〜7割となった。
夜、法隆寺を扱った番組を観ていたら、ヘンなことを思いついた。
法隆寺は、聖徳太子が建てた寺、ということは、たいていの人は知っている。聖徳太子は、西暦574年に生れ、622年に死んでいる。その法隆寺は、670年に焼失している。このこと、幾らかの人は知っている。その後、持統天皇の時代に再建されたとされる。
聖徳太子の創建、また、その後の再建に関しても、さまざまな説があるらしいが、まあ、そのようになっているようだ。学者の間では。さまざま跋扈する豪族を抑え、天皇家の統治を確立する為には、聖徳太子の威光を利用する、それによって人心を掌握することが、必要だったようだ。
法隆寺は、、日本最多38件の国宝を持つ。その中、本尊の釈迦三尊と、今は夢殿にある(元は、釈迦三尊と共に、金堂にあったそうだが)救世観音は、当初の法隆寺が焼失する以前の、飛鳥時代の仏像だという。いずれも、聖徳太子生前の似姿を表わしたものである。私の好きな仏像のひとつではあるが、共に、仏教の開祖・釈迦と聖徳太子を同一化、融合させたものらしい。
国を統治する為には、そういう必然性があったんだ。いつの時代にも、さまざまなことがある。
で、ここ何日か、新聞やテレビを賑わしているバカなことを考える。小沢一郎を批判した生方何某という副幹事長が、解任されたり、また、それが撤回されたり、ということを。民主党のゴタゴタを。
誰と誰がくっついて熱愛だとか、ロックグループの誰それが当麻を隠し持っていたとか、売り上げを4倍に伸ばしたあのプロダクションが、所得隠しをしていた、なんて報道と同じ、お笑いネタとして扱われている。恥ずかしくないか、こんなことをしていて、民主党は。切るなら、切ればいいんだ。それが国民に受け入れられないんだったら、下野すればいいんだ。
聖徳太子は、こう言っているんだ。十七条の憲法で。
十七条の憲法の第一条、その冒頭の、「以和為貴」、和を以って貴しと為すは、多くの人が知っている。だが、その第十条にこういう言葉があるんだ。
「我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳」、という言葉が。つまり、自分は聖人ではない、他人もバカなヤツではない、みんな共に凡人なのだから、という言葉が。そうだよ、たしかに。
聖徳太子は、やはり、偉いな。それに引き較べ、1400年後の、今の連中は、バカなヤツばかりだ。
政局のことなど、暫く触れないでおこうと思っていたが、聖徳太子のことを考えている内に、つい触れてしまった。