千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

オリンピックが始まったので、触れなかったが、先週11日の建国記念日、靖国神社へ行った後、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑へも行った。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、この時季は、午後4時で門を閉める。3時半過ぎ、急いで入る。雨の降る寒い日、靖国神社も人は少なかったが、千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、少ないどころか、誰ひとり来ている人はいなかった。私も、ここへお参りするのは、何年かぶりであるが。
靖国には、戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦死者、246万余柱の”霊”が祀られているのに対し、千鳥ヶ淵には、第二次世界大戦での戦没軍人及び一般人の中、身元の分からない人たちの”遺骨”35万余柱を安置してある。昭和34年(1959年)に造られ、国が維持、管理している。
第二次世界大戦での日本人の死者(この戦争により亡くなった、中国その他外国人の死者の問題は、今は措く)は、海外で240万余、空襲、原爆などによる国内での死者を合わせると、310万をはるかに超える。今なお、100万体を超える遺骨が、異邦の地に眠っている、と言われる。
今、ここに眠る35万余の遺骨、この六角堂と呼ばれる建物の地下に安置されている。

六角堂とは、本土周辺、満州、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋・ソ連、の6地域から集められた遺骨を、6つの納骨室に納めている、ということだろう。お堂自体も六角である。
もちろん、無宗教。神社でも、お寺でもないから、賽銭箱はないが、左側に1本100円と書いた料金箱があり、菊の花が置いてある。それを、正面の、下に水を張った献花台に挿す。
私も、100円玉を入れ、白菊を1本献花台に挿し、手を合わせた。

六角堂に向かい左側にある、昭和天皇の御製を刻んだ碑。昭和35年(1960年)に建てられたという。

御製の歌が書かれたプレート。

右側には、平成天皇の御製の碑がある。平成17年(2005年)に建てられたもの。

その御製、こういう歌である。
4時の閉門まで、30分近く墓苑内にいたが、その間、お参りにきた人は、わずか二人であった。
靖国問題が出るたびに、国立の追悼施設の問題が出る。千鳥ヶ淵戦没者墓苑をその施設に、という意見も多い。
A級戦犯合祀以来、昭和天皇は、靖国神社へは行かれなくなった。今上天皇も、当然、行かれない。天皇がお参りできる、戦没者の追悼施設が必要である、との意見は多い。それには、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を、何らかの形にして、との考えだ。
だが、これには、靖国神社が、強硬に反対している。靖国から言えば、靖国神社こそ、戦没者を祀る唯一の場所だ、と言っているのだから。靖国神社が、”昭和殉難者”と言っている、14人のA級戦犯も含め。
しかし、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が、天皇もお参りできる、新しい国立の戦没者追悼施設に成りうるか、というと、それにも問題があるらしい。
先日触れた、保阪正康は、その著『昭和史の大河を往く 「靖国」という悩み』の中で、「靖国」と「千鳥ヶ淵」には、それを結ぶ地下水脈がある、と記し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の靖国人脈に触れ、国の管理下にはあるが、千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、靖国の軛から逃れられない事情がある、と書いている。もっと、開かれたものにならなければならないと。

帰途、皇居のお濠に枝をのばす千鳥ヶ淵の桜、寒空に震えていた。