今日の朝・毎・読。

今日の朝刊一面、朝日と読売は、左1/3を割いている。紙面構成、がっぷり四つ。いや、朝青龍引退の記事のことだ。
さすが、小沢一郎の不起訴、幹事長続投という、国家がどうなるか、という問題は、トップに置かざるを得ない。まあ、妥当だろう。
ところが、毎日は、小沢不起訴を差し置いて、朝青龍引退を一面トップに持ってきた。小沢の問題は、左1/3。毎日は、考えたろう。朝日と読売が、小沢2、朝青龍1の割合で一面を組むのは解かっている。それが、全国紙の常識だ。では、我々はどうするか。朝日、読売に較べ、ページ数も少ない。まともに対抗できない。朝青龍でいくべきだ、と考えたことだろう。
毎日の懊悩、よく解かる。そして、それでいいのだ、と思う。
当然のことながら、各紙の顔、一面下のコラムも、朝日と読売は、がっぷり四つ。不起訴にはなったが、小沢の不透明な資金問題について書いている。だが、白でもないが、黒ともいえぬ、グレー、その前振りが、違う。
朝日の「天声人語」は、”四十八茶百鼠”を持ち出し、<百鼠とは、白と黒との間の濃淡さまざまなグレーのこと。江戸研究家の杉浦日向子さんの遺著に教えられた。濃淡の差はあれ、百鼠のどれかの色で民主党の小沢幹事長を眺める人は少なくないだろう>、と書いている。
これに対し、読売の「編集手帳」は、<”モノクロ映画では、黒と白のあいだに無限のグレーがある”とは映像カメラマン、宮川一夫さんの言葉である。・・・”国宝級”と評された名匠ならではの色彩論だろう。モノクロ映画と同じく、「不起訴」にも、黒と白のあいだに濃淡無限のグレーがある>、と記している。
この後の趣旨は、同じ。小沢のグレーを書いている。しかし、朝日の「天声人語」の前振りは、言わんとするところは解かるが、間違っている。百鼠を、よく解かっていない。間違えている。
”四十八茶百鼠”については、10日ほど前にも書いたが、百鼠は、グレーの濃淡ではない。白にしろ、黒にしろ、また、グレーにしろ、無彩色。単に明るさ、明度の違いだ。しかし、百鼠は、さまざまな色味の違い、色相の違い。赤っぽいグレーもあれば、青っぽいグレーもあれば、茶色っぽいグレーもある。
私は、読んではいないが、おそらく、杉浦日向子もそんなことは書いていないはずで、「天声人語」子、色については、あまりお解かりではない模様だが、ここは、正攻法で、<黒と白のあいだに無限のグレーがある>、と書いた、「編集手帳」子の、寄り切りによる勝ちだ。
毎日の「余録」は、<「人というものが世にあるうち、もっとも大事なものは出処進退という四つでございます」。幕末の長岡藩を率いた河井継之助を描いた司馬遼太郎の小説『峠』の中の河井は語っている>、と前振りし、小沢と朝青龍のことを、共に取りあげている。これも、朝・読と異なることを考える毎日の策であるが、少し弱い。
朝青龍の引退劇、スポーツ面や社会面でも、もちろん大きく紙面を割いている。
休会をはさみ、3度に渉った相撲協会理事会の模様は、読売の方が、千葉版では、詳細。午前中の評決では、解雇と、より調査をという意見が6対6であった、ということは、読売にはあるが、朝日では解からない。これも、押し出しで、読売の勝ちだな。
各紙とも、相撲担当として、長年土俵を見ている記者がおり、それらの記者による署名記事も多くある。その中で光っていたのは、朝日の広部憲太郎という記者の署名記事。朝青龍の引退を、突き放した、とてもクールな筆致で描いている。読売には、このようなクールな記事はなかった。これは、朝日のうっちゃり勝ちだろうな。
しかし、日経の「春秋」には、驚いた。
長くなるので、端折るが、明治7年の”獣類のすること”という、相撲をやり玉にあげている文章を記し、相撲が今に存続する理由考える、と書く。それは、「五常」といわれる仁義礼智信を重んじていたからだ、と続ける。
それが、ないものねだりだと思われているとしたら、そのことの方が問題である、とし、思えば、朝青龍は、最後まで自らの獣性をコントロールできなかった、朝青龍に同情はできない、とバッサリと切っている。
これは、朝日の記者の、クールな筆致どころじゃない。日経の「春秋」子は、非常にホット。
朝青龍、このようなさまざまな日本社会で相撲を取っていたんだ。生きていたんだ。
20代で、あれほど持ち上げられ、これだけ叩かれる。並みの人にはできない。いい人生じゃないか。