「日本遺産」補遺(4) (絵、忘れてはいないか)(続き)。

昨日、途中で打ち切った「絵、忘れてはいないか」の続きを記す。
それぞれの人から挙げられた「日本遺産」の絵、日本を代表するものとしては、何か、大きなカタマリが抜けているような気がする。幾つかのカタマリが。
絵巻は、私には、今ひとつピンとこないので、ここでは措く。が、例えば・・・
数多ある仏画、仏教絵画(画家の福田美蘭が、禅林寺の<山越阿弥陀図>を挙げてはいるが、それひとつ)のカタマリ。室町から江戸期にかけ、数百年にわたる一大勢力であった狩野派のカタマリ。モネやゴッホなど印象派の面々に大きな影響を与えた浮世絵(これも共に、福田美蘭が鈴木春信<座鋪八景 塗桶暮雪>と葛飾北斎<諸国滝廻り 木曽路ノ奥 阿弥陀ヶ滝>をあげてはいるが)のカタマリ。また、琳派(昨日記すのを忘れたが、あの村上隆や奈良美智を世界に売出した人・ギャラリストの小山登美夫が、酒井抱一<夏秋草図屏風>を挙げてはいるが)のカタマリ。
それに、水墨画というより、日本絵画では、別格ともいえる、雪舟。さらに、浮世絵師という範疇では収まらない、北斎(福田が挙げている1点というより、北斎という巨人の画業)。
これらのことが、私には、68名の日本を代表する人たちに、忘れられていたんじゃないか、と思うんだ。しかし、
当麻寺の<当麻曼荼羅>、法隆寺の焼け焦げた金堂壁画、薬師寺の千数百年も経つのに、やけに生々しい<吉祥天女像>。これらの仏教絵画も、今は措く。
その時々の権力者の後ろ盾の下、権勢を誇り、豪華絢爛な障壁画などを残した、正信、元信、永徳、山楽、探幽、といった狩野派の作品も、今は措く。
北斎を除き、歌麿、写楽、広重、・・・といった浮世絵の世界も、今は措く。
オイオイ、「忘れてはいないか」、と言っておきながら、絵巻も、仏画も、狩野派も、浮世絵も、みんな措いておくとは、一体どういうことだ、と思われるであろう。
千何百年にわたる日本絵画の流れの中、その極北にあるのは、雪舟、尾形光琳、葛飾北斎、この3人、と私は思っているからなんだ。
<秋冬山水図>か<破墨山水図>か、決めかねるが、いずれにしろ、何と言っても、雪舟。
琳派の中では、やはり、光琳であろう。
<燕子花図屏風>、<紅白梅図屏風>、<風神雷神図屏風>。いずれも素晴らしく、日本絵画が到達した極北の美の形のひとつだと考えている。中で、ひとつを選べば、熱海のMOA美術館にある<紅白梅図屏風>であろう。(これは、毎年、今ごろ展示している)
なお、一昨年、東博で、「大琳派展」が開かれた。その時、同じ部屋に、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、の琳派の師弟3人衆の<風神雷神図屏風>が、並べて掛けられた。光琳は、宗達の<風神雷神>を模写し、抱一は、光琳の<風神雷神>を模写し、と。壮観であった。その時、抱一の弟子である、鈴木其一の<風神雷神図>も掛けられていたが、色調が3人の先達とは異なり、また、屏風でなく襖絵でもあった為か、私には、”異”な感じであった。
そして、葛飾北斎。
北斎は、浮世絵師ではない。絵描きだ。単なる絵描きであり、とんでもない絵描き、でもある。何日か前、長谷川等伯のことを、オールマイティーな絵描きだ、と書いたような気がするが、北斎のオールマイティーさは、そんなものではない。何でも、どのような分野の絵も描いている。なにしろ、”画狂老人”と称してるんだから。90歳まで生きて。
北斎といえば、<富嶽三十六景>。たしかに、<富嶽三十六景>は、素晴らしい。その構図、限られた色しか使っていないにも拘わらず、それが醸し出す色調、何よりも、その独自な遠近法、凄い作品だ。これが、60代から70代にかけて制作されたもの、と聞くと、また、驚く。
だが、私が好きなのは、北斎の肉筆画である。特に、晩年の肉筆画。これは、凄い、素晴らしい。
晩年の北斎、度々信州の小布施に行っている。高井鴻山というパトロンが、小布施にいたからなんだが、小布施には、長期滞在している。今、その小布施に「北斎館」という小さな美術館がある。もう大分前になるが、雪のころ、観に行った。
小さな美術館で、展示品もそう多くはなかったような記憶があるが、凄かった。祭屋台があり、その天井に描かれた北斎の肉筆画、素晴らしい。上町祭屋台の<男浪>、<女浪>、の怒涛図、東町祭屋台の<鳳凰図>と<龍図>の天井画、その構図、色づかい、まさに、日本の美の極致のひとつ、と言えるものであった。
これら、ハデな彩色のものとは対極の作品であるが、北斎最晩年の、”九十老人卍筆”との署名のある<富士越龍図>、も好きな作品だ。着色されているんだが、水墨画のような感じも受ける。死ぬ数カ月前に、描かれたものだという。
北斎こそ、日本絵画史上第一の巨人。私は、そう思っている。当然、「日本遺産」に入るべきだ、と。