「日本遺産」補遺(2) (チョボチョボでない人)。

人間なんて、多少の違い、多少の出来、不出来はあろうが、そうは違わない。まあ、似たようなもの、と思っている。「人間、みんな、チョボチョボだ」、と。
この言葉、昔、小田実が言った言葉。小田は、「人間なんて、みんな、チョボチョボや」、と関西弁で言っているのだが、”チョボチョボ”という言葉が面白いのと、何より、的を射た内容であるので、今でもよく憶えている。
昨日の磯崎新も安藤忠雄も、日本を代表する世界的な建築家で、スゴイ人ではあるが、少し大きく見ると、私たちとそうは違いのない人、ということもできる。しかし、世の中には、少し大きく見ても、チョボチョボじゃない人、どうもオレたちとは違うな、この人は、という人がいる。
花人の川瀬敏郎も、そのような人のひとりでは、と私は考えている。なにか、どうも、違うんだ、この人。チョボチョボじゃないんだ、どうも。
川瀬は、派手な服を着て茶髪の長い髪の、時折りテレビに出てくるよく知られた華道家などとは、対極にある花人。晩年の白洲正子お気に入りの人で、古い田の字の農家を改造した白洲邸(武相荘)にも、度々招かれていたようだ。この4年ばかり、「芸術新潮」に、「たてはな神話」、という連載ページを持っている。
その中で昨秋、川瀬は、<たてはなは、「古今遠近」という原理で成り立っている。「古」(過去)と「今」(現在)という時間の往還と、「遠」(天)と「近」(地)という空間の往還により、一瓶を構成する。それが、「今」(現在の生)ばかりに重きをおく、他のいけばな様式との大きな違いである>、と書いている。
また、<人は、自らの生死の意味を問わざるをえないが、花は、それを問わない>、とも書いている。その川瀬は、今回の「日本遺産」企画に対して、何と答えたか。こう答えている。少し長くなるが、彼の返答文、抜き書きしてみる。
<日本遺産とは何かという問いに、私は「自然」以外のものが全く頭に浮かばなかった。・・・神饌はカミへの捧げものであるだけに、至上の美といえる。・・・古来、カミは社をもたなかった。・・・「神仏習合」することでカミ(自然)とホトケ(人間)は共存していく。神仏習合でようやく「こころ」が人間のかたちになった。・・・一木一草は神仏である>、と記す。
そして、川瀬敏郎が、「日本遺産」のトップとして挙げているのが、これである。
”吉野水分神社の桜の古木に掛けられた新嘗の稲穂”。
私は、もちろん、その”新嘗の稲穂”を見たことはない。しかし、解からないではない、川瀬敏郎ならば。だが、やはり、尋常ではない、とも思う。
なお、川瀬が、この他に挙げている「日本遺産」は、”香取神宮の「大饗祭」”、”高野山の金剛峯寺不動堂”、”大徳寺玉林院蓑庵”、である。