赦し、そして、寛容。

晴れ。
昨日は、今上天皇の誕生日。明日は、イエス・キリストの降誕日。そして、今宵は、クリスマス・イブ。
まず、マリアとイエスのがらくた(聖母マリアと救い主イエスを、がらくたと言っては、いけないが。いかに、がらくた市から私の所に来たものだとはいえ)、を載せておこう。

堅い木に彫られながら、あちこち傷だらけのマリアさまは、その母国、何処のものかは解からないが、平和島の骨董市から私の所に来た。

この小さな十字架上のイエスさまは、モントイユのノミの市から、私の所に来たものである。
子供の頃、ルーテル教会に行っていた時期がある。日曜ごと、小さな教会に行き、説教を聞いたり、紙芝居を観たり、讃美歌を歌ったりしていた。クリスマスには、たしか、お菓子をくれたような記憶がある。
牧師は、女の人で、たいへんなオバアサンだと思っていたが、まだ60歳ぐらいだったのかもしれない。ノルウェーから来た人だったが、流暢な日本語を話した。おそらく、長い間、日本での布教に携わっていたのだろう。
結婚式は、日本聖公会の教会で挙げた。私は、クリスチャンでもなければ、日本聖公会の信者でもないのだが。友達の友達の紹介で、牧師の先生に会いに行った。「基本的に、ここでの結婚式は信者に限るのですが、まあ、解かりました。その代わり、結婚式まで毎週、日曜礼拝に来なさい」、とおだやかな牧師の先生に言われた。
結婚式までの4〜5カ月、毎週カミさんと教会へ行った。小さいながら由緒ある教会で、その教会の信徒の人たちと一緒に、牧師の先生の説教を聞き、讃美歌を歌い、楽しかった。途中、バザーもあり、クリスマスのミサにも参加した。結婚後も、何年かの間、クリスマスのミサやバザーなどには行っていた。だが、クリスチャンには、ならなかった。
毎週唱えていた「主の祈り」も、今、正確に唱えられるか、はなはだ疑問だ。「我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」、という個所は、憶えているが。
クリスチャンではないが、その後、あちこちの教会へ行った。カトリック、プロテスタント、英国国教会、東方正教会、さまざまな教会へ行った。教会そのものもそうだが、聖像、壁画、ステンドグラス、イコン・・・、敬虔な仏教徒でもないのに、あちこちのお寺に行くのが好きなのと、同じようなことかもしれない。
クリスマスの残り香が感じられる、暮れから正月にかけてのヨーロッパには、何度か行ったが、クリスマス前後に居たのは、仕事をリタイアした後の2年前のみ。ロンドンにいた。
23日の夕刻、町中の小さな教会に入った。ミサが行われていた。私は、空いている椅子に座って、牧師の話を聞いていた。話が終わるとオルガンが鳴り、讃美歌が始まった。と、左隣りのおばさんが肩を組んできた。少し驚いていると、これがトラディション、習わしなんだ、とそのおばさんが言う。私も、右隣りの人とも肩を組んだ。讃美歌は、私の知らないものだったので、歌えず、ただ、小さく後追いでハモッていただけだが。
昔、何カ月か私が行っていた日本聖公会も、英国国教会系であるが、讃美歌を歌う時に肩は組まなかったが、と思った。が、同じ英国国教会とは言っても、その土地、土地、その教会、教会によって、さまざまな”しきたり”があるのであろう。
それにしても、キリスト教は、どのような人にも寛容な宗教だな。あのおばさんも、コイツは、この教会の信者じゃない、見ない顔だ、と解かっていながら、これがここの”しきたり”だよ、と言って、仲間に入れてくれる。来る者は、拒まない。
仏教のお寺もそうだ。仏教も他者に寛容な宗教、と言える。イスラム教も、イスラム原理主義のこともあり、排他的と思われがちであるが、そんなことはない。一部異教徒が入ることができないモスクはあるが、概ね寛容だ。原理主義は、なにもイスラム教に限ったことではなく、キリスト教にも他の宗教にもあるんだから。
私の経験では、一度だけだが、ヒンドゥ教の寺院で、不愉快な思いをしたことがある。
私は、どのような宗教のお寺であれ(もちろん、拝観料を取っているような所は別だが)、入口に人がいれば、入ってもいいか、と聞き、いいと言えば、入らせてもらう。小さな寺院であれば、なおのことだ。だが、このヒンドゥ寺院の前には、誰もいなかったので、入って行った。と、いきなり凄い剣幕で追い出された。理由は解からない。何か特別な行事でもやっていたのかもしれないな、と後で思うのみである。
他のヒンドゥ寺院へは、何度も入れてもらったし、ヒンドゥよりはやや閉鎖的、と言われているシーク教の寺院にも入れてもらった。だから、上の一事のみで、ヒンドゥ教が異教徒に対し寛容でない、とは思わないが、あの時の不愉快な思いは、今でも残っている。
イエスの降誕日、クリスマスからは、離れたが。
しかし、概ね、宗教とは、他者を赦し、他者に寛容であることが、その土台にあるものなんじゃないかな。それが、難しいからこそ、宗教がある、とも言えるのだろうが。