12月8日。

晴れ。
68年前、昭和16年(1941年)の今日、日本海軍は、真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入した。
宣戦布告が遅れたことに関しては、以前のブログで触れたので、今は措く。
日本は、追い詰められていた。日中戦争の見通しも立たない中、米英からの圧力は、強まっていった。それ以前の満州事変にしろ、中国本土への侵攻拡大にしろ、侵略戦争であるのだから、当然といえば当然だが。石油などの経済制裁は、だんだん厳しくなった。前年の昭和15年には、日独伊の三国軍事同盟も結ばれている。
勝ち目のない戦争だった。だが、どうも、それを推し進め、実行したのは、勝ち目がない、と解かっていた人たちであった。彼らは、三国軍事同盟にも反対した人たちだった。米内光政、山本五十六、井上成美、といった海軍の人たち、なかんずく、山本五十六だ。歴史の皮肉だな。
もちろん、開戦時の首相は、陸相と内相を兼務していた東條英機である。東條は、その少し前の昭和16年10月、内閣を投げ出した、お公家宰相・近衛文麿の後を継いでいた。近衛内閣を潰した張本人である。
<その日、東條英機陸相は宮中からの呼び出しを受けた。「お叱りかな、と思ったら大命を拝した」。参内後、車を明治神宮、東郷神社、そして、靖国神社へ向かわせた>、(井上寿一『昭和史の逆説』)、という。東條にとっては、思いもよらないことだった、ということだったようだ。
東條は、もちろん主戦派であった。が、その基本は、避けられなければ、米英に対して戦端を開く。だが、可能な限り、対米交渉は続ける、というもの。
この前後、大本営政府連絡会議と御前会議が、度々もたれている。9月3日、大本営政府連絡会議、6日、御前会議、10月4日、11月2日、連絡会議、11月5日、御前会議。
この9月6日の御前会議で、米英に対して戦争準備を行う、あくまで日米交渉は続ける、交渉の成果がない場合は、米英に対し武力発動を辞せざる、という国策が決定された。
<だが天皇は、この時も自らの意思を発することはなかった。ただ、・・・ある異例の行動に出た。やおら懐から一枚の紙を取り出し、それを読みだしたのである。「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」、・・・精一杯の意思表示であった>、(保阪正康『あの戦争は何だったのか』)、とある。
この時、昭和天皇40歳、忸怩たる思いではあられたろうが、流されてもいったのだ。
対米開戦の最終決定は、11月5日の御前会議、交渉芳しからざる時には、12月の初めに米国攻撃、を決定する。その後、11月26日のハル・ノートにより、12月1日の御前会議で、対米英蘭への開戦を確認、真珠湾へと突き進む。
この真珠湾攻撃、策定したのは、山本五十六である。昭和16年1月に大西瀧治郎に命じ、原案は、源田実が記したもの。画期的な作戦である。
しかし、近衛文麿から問われた山本五十六、「半年や1年ならば、暴れもしますが、2〜3年は何とも云えぬ」、と言っている。滞米経験の長い山本、彼我の力の差、解かっていた。が、やるならば、こう、という真珠湾攻撃だった。
<結果、山本長官の発言が、日本の歴史を左右したことになる、と井上成美は述べていた>(新井喜美夫『日米開戦の真実』)、ということも言われているが。
68年前の今日、12月8日に始まった戦争、その後、3年8カ月続き、その間、軍人軍属230万人、民間人80万人、合計310万人の日本人がが死んだ。外国人の死者は、計り知れない。
そして、今がある。12月8日、思うこと多い。