主従二人・番外編(芭蕉記念館)。

晴れ。
『おくのほそ道』の芭蕉と曾良を追っかけた「主従二人」が終わってから、ちょうど2カ月になる。
彼ら二人、終着地の大垣に着いちゃったんだから、追っかけようにもどうしようもないんだが、レギュラーものがないと、やはり、少し寂しい。
そこで、「主従二人」の番外編として、芭蕉がらみのことを、何回か記すことにする。
今日は、深川の「江東区芭蕉記念館」とその周辺について。
全国に芭蕉の記念館は、10近くあるようだが、深川は、何といっても、芭蕉が奥の旅にでるまで住んでいた所。ゆかりの地、No.1だ。江東区が、記念館を建てたのも解かる。

記念館の入り口にある芭蕉の木。
ここへ行ったのは1カ月ほど前の11月初め。この時も芭蕉の葉は、大分よれていたが、今ではもっとよれているだろう。
実は、その1カ月ほど前の10月初めにもここへ行っているのだが、その時は、カメラのメモリが効かなくなり、再訪した。

小さい記念館だが、境内にさまざまな木が植わっており、その間に間に、このような石碑や芭蕉の句を記した木札が掛っている。この碑は、『おくのほそ道』の<月日は百代の過客にして・・・>の、よく知られた書き出しに続く第一句である
     草の戸も住替る代ぞひなの家
の碑。
芭蕉が、奥の旅に出る時に、庵の柱に懸け置いた8句のひとつだ。

日本人なら、小学校の坊主でも知っている句の碑もある。少し読み辛いが、そうです、
     古池や蛙飛びこむ水の音
である。

境内には、ツバキの花もポツンと咲いていた。
館内に入る。
観覧料、100円。100円でどうする、と思うが、芭蕉の聖地の江東区、面子にかけても100円しか取らないんだろう。
さまざまな『おくのほそ道』本があった。枡型素龍清書本、枡型元禄版、枡型寛政版、絵入りおくのほそ道半紙本、永機本明治版、等々。みな以外に小さい。掌に入るほど。
奥を旅した芭蕉の装束も展示されている。もちろん、芭蕉自身が身に纏ったものではないが、それでも今から見ると、興味深い。
網代笠、茶人帽、白衣、黒衣、手甲、脚絆、足袋、草鞋、頭陀袋、矢立。これで旅したんだ。芭蕉と曾良は。
森川許六の筆になる「奥の細道行脚之図」がある。複製(原画は、天理大学の図書館蔵)だが。
杖を曳く芭蕉と、網代笠に頭陀袋を振り分けに掛けた、随行者・曾良の姿を描いたもの。元禄6年に描かれたものだが、今あちこちの書でお馴染みの、主従二人の姿。
それより、蕉風中興を唱える、与謝蕪村の手になる「奥の細道」屏風が、素晴らしい。これも縮尺複製(現物は、山形美術館蔵)であるが、すごい。
『おくのほそ道』記載の全句の間に間に、淡彩の俳画が添えられている。文字の大小、墨の濃淡、絵の配置、その構成の様、ウーン凄いな、と唸った。
蕪村の筆になるものでは、原画が逸翁美術館にある「奥の細道」画巻、10点ほどの複製もあるが、六曲屏風の素晴らしさ、と言ったらない。蕪村は、俳人としても、屈指の男だが、絵描きとしても、屈指の男、何の不思議はないのだが。
なお、許六の絵も蕪村の絵も、原画はもちろん重文となっている。

記念館の境内の築山には、小さなお堂があった。中には、小さな芭蕉の像。昭和18年、芭蕉稲荷に建てられたものを、移築したものだという。

その芭蕉稲荷は、これ。大正6年に創建された、という。記念館から7〜8分のところにある。
とても狭い。古池や、の地である。境内には、蛙の置物が、2〜3匹いた。

片隅のプレート。ここが、芭蕉庵のあった所、と書いてある。

そのすぐ近くの記念館分館にある芭蕉像。コンクリのビルを眺めている。
なお、この芭蕉像は、芭蕉の経済的な庇護者であり、芭蕉庵の提供者とも言われる、杉山杉風が描き、京都の画家に忠実に模写させた芭蕉像によったもの、とのプレートがあった。
隅田川のほとり、すぐ後ろの橋は、清洲橋。320年前、芭蕉が眺めた光景とは、すいぶん変わったろう。
しかし今、くる日もくる日も、この光景を眺めている芭蕉、「どうも、いい句、趣のある句が、思い浮かばないな」、と思っているのではないだろうか。