時代は、流れる。

晴れ。
もう1日、タバコについて考えよう。
喫煙環境は、年々厳しくなっている。駅はもちろん、路上禁煙も当たり前。今まで吸えていた喫茶店が、突然禁煙になっていることも、このところ多い。
実は、私の家でも、家族の前では、吸えない。吸う時には、私の部屋へ行って吸っている。それでも、いつの頃からか、リビングには、イオンだか何だか知らないが、消臭消菌の電気器具が置いてある。私の服にタバコの匂いが付いているからだそうだ。でも、家人がいない時には、リビングでも吸っているが。ハハ。
それはともかく、喫煙環境がこれほど厳しくなったのは、いつからか。癌になろうと、何になろうと、喫煙者個人の問題であった頃には、今ほどではなかった。受動喫煙という言葉が、よく使われるようになった頃からであろう。お前のことは、どうでもいいが、人様に迷惑をかけてるんだ、環境に良くないんだ、といったことが、声高に言われ始めた頃からであろう。
さらに、欧米先進国で”禁煙法”が、次々に施行されたことも影響している、と思われる。英仏独では、この2〜3年の間に、禁煙法が次々に施行された。これらの国々での喫煙環境は、ガラッと変わっている。
ロンドン下町のスポーツ・パブでは、大型のモニターでのサッカー中継を見ていたオジさんやお兄さんが、時々席を立ち、店の外に出てタバコを吸っている。店の前には、灰皿も置いてあるが、そんなものなどすぐ一杯になり、そこら中の路上には、吸い殼があちこちに落ちている。私も、それに倣った。
パブの中では禁煙だが、路上では禁煙ではないんだ、ロンドンでは。この点、日本とは違う。
また、サルトルが、ゴーロワーズを燻らしながら、ボーボワールと実存主義哲学を語りあったサンジェルマン・デ・プレのカフェも、店内禁煙。タバコを吸うヤツは、店外の席で寒風に曝されながらタバコを吸っている。
禁煙法施行後の、ここ2〜3年のヨーロッパの姿であるが、日本も遠からずそうなる。日本には、まだ禁煙法はない(はずだと思う)が、禁煙法が施行された時には、路上喫煙も禁止なのだから、ヨーロッパよりは、より厳しい環境となるだろう。
それもともかく、ここ暫くのタバコ関連本は、嫌煙にしろ好煙にしろ(前者が、圧倒的に多いが)、タイトルを見ただけで、なにかギスギスしたものばかりである。昔はそうでもなかったのに、ゆったりとしたものがあったのに、と思い、本棚を探したら何冊か出てきた。
梅田晴夫著『たばこ博物誌』、大渓元千代著『近代たばこ考』、開高健編『たばこの本棚』、発行年を見ると、いずれも昭和50年代、30年前後前のものである。
タイトルを見ただけでも、おおらかなものであるが、改めて読んでみると、その感、深くする。たばこ嫌いの話は出てくるが、禁煙だとか、ましてや受動喫煙なんて言葉は、どこにもない。
『たばこ博物誌』は、帯を貼ったボール紙の箱に入った本。中の印刷も全ページ、セピアで刷られている洒落た本だ。著者の梅田晴夫は、今ではほとんど忘れられているが、仏文学者にして、タバコ、パイプ、万年筆、時計、などの収集家。幼稚舎からの慶應ボーイ、趣味人だ。
タバコに関する楽しい話題のことごとが、綴られている。30年前には、このようなタバコ本もあった。今では、考えられないが。
『近代たばこ考』は、幕末から明治以降のタバコ史が、こと細かく述べられている。タバコのみならず、歴史の勉強にもなる。
例えば、私が生れた昭和16年前後の記述。戦時色が強くなっていく。紀元二千六百年、という章がある。念のため記せば、紀元二千六百年とは、昭和15年のことである。
戦時色が強くなり、横文字が廃止されていく様が記されている。ゴールデンバットが金鵄に、チェリーが桜に、カメリアが椿に、と。それより、皇軍(天皇の軍隊だ)慰問タバコに刷りこまれた言葉、考えさせられる。
錦に、「戦勝百万一心」、「愛国」、「愛国百万一心」、朝日に、「武運長久 皇軍慰問」、錦と光に、「挙国一致 国民精神総動員」、と刷りこまれていたそうだ。今の、肺がんになる危険性がありますとか、心筋梗塞のおそれとかといった刷りこみ、と同じように。時代を感じる。
この本の最後の方に、笑ってしまう記述があった。「煙草のめのめ」という歌である。
<たばこのめのめ空迄けむせ どうせこの世は癪の種・・・、たばこのめのめ照る陽も曇れ どうせ一度は涙雨・・・、たばこのめのめ忘れて暮せ どうせ昔にかえりゃせぬ・・・>、という歌。作詞は、北原白秋である。白秋は、こんな歌も書いていたんだ。おもしろい。
開高健編の『煙草の本棚』には、「5つの短編と20の随想」とのサブタイトルが付いている。さすが開高、その5つの短編の作者が凄い。稲垣足穂、横光利一、芥川龍之介、火野葦平、そして、三島由紀夫、の5人だ。
三島の『仲間』という短編というか掌篇は、なんとも不思議な怪異譚。おそらく、若い頃の作品であろう。後年の三島の作品とは、ずいぶんイメージの異なる小説であるが、これまた、たいへんおもしろい。
内田百ケン(門がまえに月)の『実益あり』との随想には、驚いた。
<私は幼少の比から煙草を吸ってゐる。幼少と云ふのは幼稚園に上がるよりまだ前の事であって、頭は昔のおけし坊主、そんなガキが長煙管でふかり、ふかり煙をふかしてゐる。・・・爾来口中から煙を吐きて七十年、一度も禁煙などした事なく今日に及んでゐる>、と書いている。
なにをバカなヤツ、と吐き捨てるのは、簡単である。ましてや、内田百ケン(門がまえに月)などという名を知らぬ世代の人にとっては、そうだと思う。だが、おおらかではないか。今と較べて。私は、そう思う。
いずれにしろ、30年ぐらい前には、タバコ関連本でも、ギスギスした今とは違い、楽しく、ゆとりのある本があった。
時代は、流れたんだな。