最後の芸匪。

曇り。
今日、森繁久彌さんが亡くなった。96歳。夕刻、各局すべて、その死をテロップで流したという。
夜のニュースでは、市橋逮捕に次ぐニュースとして、大きく報じられていた。
昭和の大俳優として、「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」での国民的俳優として、『屋根の上のヴァイオリン弾き』をはじめとする、舞台での名優として、また、『知床旅情』の作者として、その『知床旅情』をはじめ、多くの森繁節の歌手として、そして、歌舞伎等の古典芸能以外では、初めて文化勲章を受けた人物として。
たしかに、そうだ。昭和という時代を生き抜いた名優であった。「社長シリーズ」もすごいが、織田作之助の『夫婦善哉』のたよりない主人公・柳吉などは、大阪生れの森繁さんでなければできない名演。また、『知床旅情』もいいが、『船頭小唄』の森繁節も、人の心の奥底を知った者でなくては、ああはいかない。
映画や舞台の俳優、また、歌手としてばかりでなく、声優としても凄かった。若い頃、長期間の入院生活を送ったことがある私は、消灯時間の過ぎた後の病室で、森繁さんと加藤道子の二人だけによる『日曜名作座』を聴いていた。名優二人だけによる進行、共に5、6人の登場人物を、語り分けていた。
俳優として、歌手として、その名は高いが、私にとっては、声優としての森繁さんが、一番凄いと思っている。長い間、電気の消えた暗い病室の中、イヤホーンを通しての世間との繋がり、という状況にもあったからでもあるのだろうが。
だが、森繁さんは、これにとどまらず、文筆家としての一面も持っている。多くの著書があり、名文家である。手許にある、週刊読売に連載した、満州時代を書いたものを纏めた著書『こじき袋』から、森繁さんの原点を少し抜き出してみる。
よく知られていることだが、森繁さんは、昭和14年(1939年)に満州に渡り、日本敗戦後、昭和21年(1946年)、日本に引き揚げている。この間、放送局のアナウンサーとして、満州全土と言ってもいいぐらい、あちこち飛び回っており、様々な人に会っている。
その一部を挙げると、コザック、ブリアート蒙古、オロチョン族、ゴルチ族、満州旗人、土耳古人、ウクライナ人、アルメニア人、チャム。これらみな、その当時、満州のあちこちに住んでいた人たちである。これらの人たち、その土地を訪ね、番組を作っていたという。これらのことが、後の森繁さんの、どのような役柄でも演じ分けられる、土台となっていたのではないか、私は、そう思っているのだが。
それはともかく、『こじき袋』からそのいきさつを引くと、
<昭和14年1月 NHKアナウンサーの試験をひやかしのつもりで受く。3回、4回、5回、落伍せず。6回目の日の口頭試問に残るもの900人中50人、ついに30名採用の中に入り、外地へ高飛びとシャレて満州におもむく。これ、森繁久彌、人間確立の第一歩なり>、と。
この『こじき袋』は、昭和32年の刊行、半世紀以上も前である。当時既に森繁さんは、俳優としての不動の地位を確立していた。『こじき袋』には、こういう一節もある。<どうせ生きているならたっぷりと人生を楽しみながら、貴重な「時間」を大切にしてゆきたいとねがっている>、との。
森繁さん、96歳。十分に人生を楽しまれたことだと思う。自らのみでなく、人にも十分楽しみを与えてくださった。
ところで、今日のブログのタイトル、「最後の芸匪」とキーを打った。天皇陛下から文化勲章を手渡された人に対して、芸匪とは、どういうことだ、と思われた方も多かろう。だが、それにはワケがある。私なりの思い入れがあるからだ。芸匪とは、森繁さんが書かれた文章からの言葉を引いたものだ。
私の親父は、50年近く前、若くして死んだ。その後、小さな追悼集を編んだ。何人かの方から、追悼の文章を寄せていただいたが、森繁さんからもいただいた。その中にこういう一節がある。
<○○と云えば我等満州芸匪の一族である。芸匪とは、在新京の芸術にたずさわる謂わば無頼の徒で、・・・・・、当時放送局の森繁共を指した尊称である。口に芸術を語り、会社をさぼり、昼酒をあふり、ニンニク臭い息をして嫌われていた所以であろう・・・・・>、との。
この○○は、死んだ親父の名前であるが、その頃は、既に大スターであり、お忙しい日々だったと思われる森繁さん、古い仲間内への思い、丁寧に果たしてくださった。人間としても、素晴らしい。
明日以降、森繁さんへの追悼の言葉は、各紙誌へ多く掲載されるであろうが、その誰もが書かないであろう「最後の芸匪」という言葉を私は、森繁さんに贈りたいと思う。
そういえば、『こじき袋』の表紙裏、見返しには、森繁さんと、挿絵と装丁をされた赤羽末吉さんのサインが書かれている。赤羽さんは、絵本画家、福音館の絵本には、多くの絵を描かれているので、その雄渾な絵を見ると、ああ、と思いだす方も多かろう。1980年には、国際アンデルセン賞も受けている。この赤羽さんも、満州芸匪のひとりである。
『こじき袋』の見返しには、森繁さんの字で、昭和三十二年四月十日、との日付けが書かれている。おそらく、この書が上梓された後、古い仲間内で出版記念の飲み会を催したのであろう。
森繁さんの死に対し、誰もが書かないであろうことについて書いた。偉大な人であったが、最後の「満州芸匪」でもあった森繁さんへの思いを。
心から、ご冥福をお祈り申しあげます。