ホームカミングデー。

晴れ。
昨日までは、学生時代のサークル仲間との催しだったが、今日は、ホームカミングデー。このところ、学校づいている。
卒業後、25年、35年、45年、そして、50年目の節目にあたる卒業生を学校へ招く、との日。
私は、昭和36年入学、昭和40年卒の45年目の口。しかし、実際には、幾つかの事情あり、他の連中の丁度倍の8年をかけ、昭和44年にやっとこさ卒業させてもらったのだが、このような行事の折りには、入学時の友と同じ扱いとなる。そりゃそうだ、同年卒業時の級友などいないもの。その点、おおらか、私の学校は。
久しぶりの構内で貰った校友会の広報紙には、「お帰りなさい!ようこそ、青春の杜、想い出の母校へ」、とある。さまざまな展示、演奏会、催しが同時並行で行われている模様だが、短時間、二つの古くからある博物館へ入る。
そういえば、構内あちこちにある焼きそばや、一杯飲み屋や、お好み焼きなどの出店には、若い学生に混じり○○会とかいう法被を着て学帽まで被ったジイさんが何人もいた。客でなく、作り手や運び手として。サークルの数など、それこそ掃いて捨てるほどある学校なので、焼きそば研究会とか一杯飲み屋探求会なんてものもあったのかも知れない。
応援部と楽隊の現役の学生が、校歌や応援歌を演奏している会場では、彼らに合わせて小さく歌いながら、思わず涙が出そうになった。50年近くになると、やはり、そうなるな。
時間になり、クラス会会場の日本料理屋へ。今日は、学校近くの料理屋は、さまざまなクラス会が行われているだろう。5〜60人いた入学時の内、20人が出席している。沖縄や八戸からも。だが、5人が既に亡くなっている。
いつも、このようなクラス会の折りには、最後に彼の音頭で校歌を歌った応援部のKという男を思い出す。Kは、5年ほど前に亡くなったが、生涯応援部という男だった。今、彼の通夜のことを思い出す。
最寄りの駅から通夜の会場まで、黒い学生服の現役の応援部の学生が辻辻に立ち、通夜会場には、畳10畳ほどもあるのでは、と思われる大きな校旗が掛っていた。弔問に来ている者も、体育会系のOB、OGが多く、何々が低迷しているのは、入試制度がいけない。入試制度を変えなきゃいけない、なんて話をしていたな。
それはさておき、クラス会から帰り、今、今日のブログのキーを打ちながら、何故か、死んだこのKのことを思い出した。そして、連想のように、あと一人、やはり6〜7年前に死んだ、これも同じイニシャルの別のKのことも思い出した。こちらのKは、北海道の富良野から出てきた男で、学内に幾つかある劇団のひとつで芝居をしていた。
やくざな芝居者の常で、4年では卒業には至らず、5、6年学校にいて北海道に帰ったようだ。その後、クラスの連中とは没交渉のようであったようだが、どういう訳か、私とはたまに連絡を交わしていた。6〜7年前の正月、アレ、年賀状が来ないな、と思っていたら、何日か後に夫人から、先日亡くなった、との手紙が来た。
ホームカミングデーのクラス会の日、帰ってきてこのブログを打っていたら、どういう訳か、先ほど会った元気な友よりも、既に死んだ二人のKのことを、何故か思い出した。
なお、ホームカミングデー、25、35、45、と10年刻みできて、次は50年目、と5年刻みになるのは、誰しもが思う通りの理由によるのだろう。