主従二人(大垣)

台風。雨少なく、風強し。
思えば、このブログを手探りで始めた6月末、梅雨の時季でもあり、ふと思いついたのが、芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂」の句。俳句のことなど、なにも知らないのに。
そこから始まった芭蕉と曾良の主従二人旅のおっかけ、いよいよ大団円、大垣の条となった。
大垣には、8月21日(新暦10月3日)に、敦賀まで出迎えに行った露通に伴われて着いたようだ。途中、馬にも乗って。大垣には、体調を崩し、先に伊勢の長嶋に帰っていた曾良も来て出迎えるし、名古屋の弟子・越人も馬を飛ばして来る。
5カ月に及ぶ長旅の草鞋をぬいだのは、大垣の門弟・如行の家。大垣は、俳句所、大垣藩士はじめ芭蕉の弟子も多い。前川子、荊口父子、その他多くの人が日夜訪ねてきて、まるで生き返った人に会うように、喜んでくれたり、労わってくれたりした、と芭蕉は書いている。
ここに出てくる露通は、実は、芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出る時、「私が、師のお伴をしましょう」と名のり出た男である。それが、実際に曾良になったのは、芭蕉の江戸での後援者である杉風の「今度の旅のお伴は、曾良のほうがいいでしょう」という助言に芭蕉が従ったからだ、と誰かが書いているのだが、誰であったか、何処にであったか、今思い出せない。
後世の私たちにとっては、几帳面な曾良がお伴してくれて良かった。簡潔ながら詳細な『旅日記』も毎日面倒がらずに付けてくれたし、旅の先々での『俳諧書留』も残してくれた。
しかし、この露通という男も、なかなかの男だと私は思う。自ら希望した師のお伴役は曾良にとられたが、めげもせず、こうして師の旅の終焉を、出迎えに来てるんだもの。さらにこの後、伊勢の遷宮を見に行こう、と言う芭蕉と曾良と共に、3人で伊勢に行くんだから。愛すべき男だ。
大垣に着いて、芭蕉はホッとしたろう。長旅を共にしながら、体調を崩し先に帰った曾良も来てくれたし、多くの門人も次々と訪ねてくれるし、長旅の疲れを癒すばかりでなく、久しぶりに、心地よい日々を過ごしたのじゃないかな。
しかし、旅に命を賭けている芭蕉という男は、それでは収まらない。こう書いている。<旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて>、と。
旅の疲れも、まだ完全に取れてはいないのだが、9月6日(新暦10月18日)に、4日後にあるお伊勢さんの遷宮に参ろう、と舟で伊勢に向かう。前記したように、曾良と露通の二人をお伴にして。大垣の弟子たちは、船着き場まで見送った。
5〜6年前、学生時代からの永い付き合いの友人が亡くなり、その葬儀が大垣で行われた折り、葬儀の後、私もこの舟着き場の跡、水門川のほとりを訪れた。小さな灯台があった。近場に、「奥の細道むすびの地記念館」という小さな博物館もあり、芭蕉ゆかりの品々が展示されていたのを思い出す。
この舟着き場で、門人たちとの別れに臨んで詠むんだ。昨日も写した句を。
     蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
の句を。
芭蕉この時46歳、当時では、老境である。多くの人との別れ、寂しいものだ、と思ったであろう。これが今生の別れ、とも思ったであろう。「花に嵐の喩えもあるぞ、さよならだけが人生だ」は、後年の井伏鱒二の名訳だが、この元詩、中国の詩人のことも芭蕉の頭には、あったであろう。
これで『おくのほそ道』のおっかけ、芭蕉と曾良の主従二人の旅のおっかけは、終わった。
途中、長く日があいたこともあり、また、私の記述や解釈、多くの誤りもあることだと思う。まあ、それもいい、と思っている。私ごときが、俳聖・芭蕉に対したのだから。楽しかった。
そう言えば、こんな愚にもつかぬブログを、”お気に入り”に入れます、と言ってくれたただ一人の人、俳人のSさん、碌でもないこのブログのご愛読、ありがとうございました。主従二人のおっかけ、貴女のために書いていた日もある。
たまたま平泉から始まったこと故、旅の前半が残っている。ま、来年3月、新暦では5月になれば、また、深川出立の折りからおっかけをしようかな、とも考えております。