何時でも、おかしくはなし。

曇り。
芭蕉は、昨日大垣に着いているのだが、IOC総会の模様が面白かったので、そのことにした。まあ、320年前のこと、一日や二日遅れたってどうってことはない、と思い。
それに、今日はどうも芭蕉のことなど、のんびりと書く気にならない。故に、芭蕉のことはまた日を改めて、とする。大垣には、半月ばかり滞在しているのだし。
中川昭一が死んだ。驚いた。
親父さんの中川一郎のことがあるので、誰しもが、自死だな、と思ったろう。私もそうだ。、まだ56歳と若い。身体を悪くしている、との話も聞かない。いかに先の選挙で落ちたとはいえ、どうしてか、と思った。行政解剖の結果も、死因不明、とのこと。病死の可能性も、と。
さまざまな人が談話を出しているが、麻生や谷垣の言葉より、鈴木宗男の言葉が、目を引いた。「どうしてという思いが去来するが、政治の世界は厳しい」、と涙を流して語っていた。中川一郎の筆頭秘書をしていた鈴木は、中川の死の後、中川の長男である中川昭一と、激しい後継争いを展開する。いわば、主家の若殿との覇権争い。その若殿・中川昭一の突然の死を聞いた鈴木の頭に、まず浮かんだのは、中川一郎のことであったろう。
私も、中川一郎のことを思い出した。もう四半世紀以上も前のことを。青嵐会のことを。田中角栄が首相のころだ。自民党のタカ派の若手代議士が、派閥横断的なグループを作った。中川一郎、渡辺美智雄、中尾栄一、三塚博、江藤隆美、森喜朗、石原慎太郎、浜田幸一、山崎拓・・・といった面々。
後の自民党の大立者、派閥の領袖となった者も多く、なにより、顔だけ見ても腕っ節の強そうな面々が多かった。中川一郎は、その青嵐会の中で、最初に自民党の総裁選に挑戦した男。敗れた。その後、どれぐらい経ってからか、自死した。たしか、北海のヒグマ、と呼ばれていたと思う。当時の若い連中、その立場は別にして、みな興味を持った。私も。
今のニュースでも、病死の可能性が強いとのこと。鈴木宗男の言う厳しい世界に生きてきた人だが、50代でも病死は不思議ではないのだ、と改めて考えた。
実は、今日昼過ぎ、友人から、学生時代の先輩が死んだ、との電話がかかってきた。先日、深紅のバラを持って、共に見舞いに行った先輩が。その時も、管で生きている、と言っていたのだが。放射線治療をする、と言っていたんだが、そういう状況ではなかった、という。
つい二日前、元気な友人からの来信が幾つか来たので、「メザシを食って」、というようなことを書いたのだが、そうは言っても、オレたち、そういう年代なんだな、と改めて思う。何時でも、おかしくはない年代なんだな、と改めて思う。