メザシを。

雨。
来信2通あり。手紙とはがき。
1通は、2カ月ほど前、「わが道の人」としてこのブログに書いた人。30年以上映画を観ていない人、eーメールなどやらず、手紙のみの人。スキー、バイク、カヌー、といったフィジカルな趣味に打ち込んだ後、60歳を超えてから突然英語の勉強を始めた、あの「わが道を行く人」からである。もう10年ぐらいの長い間、2〜3カ月に一度、手紙でのやりとりのみをしている唯一の友・Sさんからである。
秋場所も終わったので、もうそろそろ来るのではないかな、と思っていたら来た。いつものように、便箋3枚にびっしりと書いてある。
昔のカヌー仲間が、リタイアした後、どうした風の吹き回しか、ウッド・ワークに取りつかれ、見た目にはじつに幼稚なガラクタなのだが、この秋作品展をやるのがいる、とか、やはり、カヌー仲間でこちらは小学校の絵の教師をやっていた男は、2〜3年に一度、銀座の画廊でグループ展をやっている、とか書いてある。
Sさん自身は、先日まで、ヘミングウェイの「老人と海」を原書で読んでいた、という。ベランダに折りたたみ椅子を持ち出し、コーヒーを据え、福田恒存の翻訳を傍らに置き、と書いてある。実に、読み終えるのに、2週間かかった、という。1パラグラフずつ原文と福田恒存の訳文とを突き合わせ、未知の単語は、すべて辞書で調べる、という厄介な作業を続けた、とある。
それじゃ、小説を読むというより、苦行をしてるんじゃないか、と勉強など碌にしない私は思うのだが、それが、Sさんにとっては、楽しみなのであろう。
Sさんらしい。生真面目な性格そのまま、何事も徹底的にやらねば気がすまないんだ。いつかの手紙に、「お嬢さん学校には、貧乏のビの字もない」、と書いてあったが、10月から、またその女子大のオープン・クラスに通う、と書いてある。リタイアした年寄りは、皆、何のかのやってるんだ。
はがきは、学生時代の同じクラスの女性から。「今夏は、主人とスイスに行きました」、と書いてある絵はがき。マッターホルンが写っている。そういえば、私は、久しく海外へ行ってないな。この秋やらねばならないこともあるんだが、今年はHISの格安チケットで、ソウルのサムスン美術館へ行った1回のみ。絵はがきには、「老体にムチ打ってます」、とも書いてあるが、なかなかどうして、元気だ。
手紙じゃないが、やはり、昔の級友から、「昨日まで、昔の会社の仲間と東北へ、ゴルフ旅行へ行っていた」、というメールも来た。「斜陽館へも寄って、昭和文学の香にも少し触れた」とも書いてある。
年寄り、みんな元気だ。ゆとりも、まあある。少子化、子供はなかなか産まれないが、年寄りは、なんのかのとやって、みな元気。どんどん高齢者が増えるわけだ。他人のことはいえず、私もその一員だが。どんどん増える老人対策、国の社会保障政策、これからの舵取りは難しかろう。
新政権の政策の中、「こども手当」がどうこう、という人がいる。一人、月額26000円は多すぎる。年に30万強、2人いれば60万強、財源はどうするんだ、と。たしかに、親の所得にかかわらず、というのには、一工夫必要だろう。だが、私は、子供がどんどん少なくなった日本、この程度の「こども手当」は、実施すべし、と考える。
財源はどうする、と言われれば、高齢者対策費を削ればいい、と考える。少し乱暴な考えであることは、承知の上。もちろん、セーフティーネットは、キッチリと行った上で。
少なくとも、旅行だとか何だとか、生産的なことに直接繋がらないようなこと(実は、私も、非生産的なことが好きで、そんなことしかしていないのだが)を行える年寄り層への社会保障は、減らせばいい、と思う。その分、これからの子供増対策にまわせばいいんじゃないか。論理的でない極論であること、もちろん承知。
ただ、その前提として、天下り(今、問題となっているのは、上の方の独立行政法人のみである。その下に、通常の公益法人がいっぱいあり、その各々の理事に、監督官庁から天下りが来ている。私が知る限り)や、地域エゴなどの国費のムダを省くことは、完璧に行うべきだが。
優先順位の問題だ。元気な年寄りより、まず子供だ。
土光敏夫のことを、思いだす。
石川島播磨や東芝の社長を務め、経団連の会長をやり、政府の行革審の会長も務めた「行革の鬼」の土光敏夫だ。辣腕経営者にして財界トップ、それ以上に一流の人間、という印象がある。
しかし、私が思いだすのは、「メザシの土光さん」だ。土光家の夕食の様、ご飯に味噌汁、おかずは、メザシと菜っ葉。有名になった。あの土光さんにして、と。が、年寄りの夕食は、これでいいんじゃないか。これに、大根おろしでも付ければ、うまい。私の夕食も、時折、そうだ。年寄りは、メザシを食えばいいんだ。三食メザシとまでは言わないが。それで十分だ。
非生産的なことがやれる高齢者は、国の厄介になどできるだけならず、メザシを食う。それが、これからの「正しい年寄りの道」、とは言えないだろうか。
今日のブログ、元気でゆとりある人たちからの手紙やメールが届いたため、論理無視、感覚のみ、のものとなった、かな。