主従二人(福井)

晴れ。
『おくのほそ道』は、5カ月に及ぶ大旅行記である。大旅行記であると共に、傑出した紀行文学である。
勿論、句が主。だが、地の文、散文も素晴らしい。
句同様、地の文も短い。練りに練って、研ぎ澄まされている。研ぐ、というより、削ぎ落とされた文である。後年、ジャコメッティが、人体を削いで削いで、あの針金のような造形に至ったように。このような感性は、どのような分野であれ、常ならざる者にしかでき得ぬことなのであろう。
しかし、時には、『おくのほそ道』書中の文章としては、やや長い記述、物語とでも言えることを書いている。福井の条がそうである。初めての一人旅となった芭蕉は、どうも、8月12日(新暦9月24日)に、永平寺から福井に来たらしい。この条は、句はなく、地の文のみ。芭蕉は、こう書きだしている。
<福井は三里計なれば、夕飯したためて出るに、たそかれの道たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。・・・>、と。
等栽は、元連歌師で、福井俳壇の重鎮であった、と文庫本の脚注にある。10年ほど前に、江戸の芭蕉を尋ねてきたことがあったらしい。また、12キロもの道のりを、夕食の後歩いて行く、というのにも驚くが、そんなことより、芭蕉の地の文、物語の、気になる字句を拾いだしてみると、
<・・・いかに老さらぼひて有にや、・・・あやしの小家に、夕貌・へちまのはへかかりて、鶏頭・はは木々に戸ぼそをかくす。・・・侘しげなる女の出て、・・・むかし物がたりにこそ、かかる風情は侍れと、・・・>、と。
老さらぼひて、あやしの、夕貌、侘しげ、むかし物がたり、ハハハ、確かに、そういう箇所のみを拾った。しかし、何やら、作為を感じるな、私には。
芭蕉が書いている大筋を記すとこうである。
もうずいぶん年月も経っているので、等栽はどんなに老いさらばえているだろう、死んでいるかもしれないな、と人に尋ねると、まだ生きていて、どこそこと教えてくれた。ひっこんだ裏店の一画の粗末な家には、夕顔や糸瓜が生えかかって、鶏頭や帚草が入口を隠している。
入口を叩くと、みすぼらしい女が出てきて、「どちらのお坊さんかは存じませんが、亭主は、近くの誰それの所に行っていますので、ご用ならそちらへ」と言う。等栽の女房だな、と思う。昔の物語に、このような風情のある場面があったな、と趣き深く思いながら等栽に会い、彼の家で二晩泊めてもらった、というもの。
芭蕉には怒られるだろうが、粗筋は、こういうものだ。なお、ここに出てくる「むかし物がたり」は、源氏物語の夕顔の巻を模したもの、と多くの先達は述べているし、万葉集を下敷きにしてもいるらしい。少し深すぎて、私には解らないが。
それにしても、年老いて、むさくるしい家に侘び住まう等栽、みすぼらしい彼の女房、との芭蕉の記述、嵐山は、等栽は芭蕉を2日も泊めているのだから、貧しいどころか、裕福であったに違いない、と言っている。
貧乏生活なのか裕福なのか、その経済状態は別にしても、芭蕉は、物語を作ったんだろう。完全なフィクションとは言わないまでも、脚色はしているな。「一家に遊女もねたり萩と月」の句を残した、一振での遊女の物語とは、また一種趣を変えた物語を、と考えたのであろう。そこのところ、面白いんだ、やはり。
いずれにしろ、等栽宅に二晩泊まった後、名月は敦賀で見よう、と敦賀へ向かう。等栽も、敦賀まで道案内をしよう、と言って、尻っ端折りをして、二人して発つ。
これが、地の文のみの福井での条。句がなくても、面白い。