主従二人(天竜寺、永平寺)

晴れ。
『おくのほそ道』の旅、主従二人のおっかけも終りに近づいた。
出羽路、越後路はまだしも、暫く前の北陸路あたりからは、もう奥の旅というには、少し違和感がある。それが越前に入ると、畿内とは言わないまでも、関西文化圏と言ってもいいだろう。芭蕉自身、長い旅だったが、あと少し、いよいよ終りに近づいたな、との思いがあったであろう。土地の人々の話す言葉のイントネーションも違ってきたろうし。
さて、北枝に伴われ全昌寺を発った芭蕉は、加賀と越前の国境にある名勝・汐越の松を訪れた後、天竜寺の和尚を尋ねている。
天竜寺は、永平寺の末寺。その住持の大夢和尚は、以前、江戸、品川の天竜寺の住持をしていたということで、旧友を訪ねたということだろう。金沢以来、ずっと付き添っていた北枝は、ここ天竜寺まで芭蕉を送り届け、金沢へ帰る。
初めは、暫くの間お供を、ということで付き添ってきたらしいが、3週間以上、特に曾良が身体をこわし先発ったここ1週間は、北枝が芭蕉の面倒をみてきた。きっと、先輩秘書の曾良を見習い、かいがいしく師の世話をしたもの、と思われる。
芭蕉は、こう書いている。
<金沢の北枝といふもの、・・・所々の風景過さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、
     物書て扇引きさく余波哉                                                >
北枝は、ここまで付いてきてくれたが、あちこちの風景を見過ごさずに趣のある句を考え、時折情趣のある着想の冴えを見せた。今別れに臨んで、一句を贈ろう、と芭蕉は記す。
句の意味は、夏の間使ってきた扇に、別れの句を書いては引き裂いて捨てようとするが、名残惜しい気もする。ここまで付いてきてくれた北枝との別れもまた、名残惜しいことだな、という北枝への感謝というか、いたわりの気持ちをも含めた思いを、詠んだものだろう。
曾良が先立ち、北枝も去って、いよいよ芭蕉は、一人になる。と言っても、実は、ここから福井までの間だけ、1日だけであるのだが。福井では、また古い知り合いを尋ねるつもりがあるので。
北枝へ与えた上の「物書て・・・」の句の後、すぐ続けて、芭蕉は、こう記している。
<五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや>、と。
ところで、この文、50町山に入って、永平寺にお参りした。道元禅師の開かれたお寺である。京からずいぶん離れた、こんな山陰にお寺を造られたのも、尊い理由があったからだという、とでもいうことだろう。普通に考えればそうである。誰が考えても。実際、多くの人は、そう言っている。しかし、この条、嵐山は、とんでもないことを言っているんだ。
嵐山は、芭蕉は、永平寺には行っていない、と言っているんだ。このコースを辿ってみた直感で、そう確信した、と記している(『芭蕉紀行』)。その理由を拾ってみると、三つばかりある。
まず、芭蕉の旅は、いつも誰か従者を連れた旅である。誰かがいつも芭蕉を守っている。この旅程は、道案内がいない一人旅だ。次いで、芭蕉は、知人がいない寺には、冷淡である。最後に、芭蕉の記述の最後に「・・・とかや」とあることで、行っていないということがわかる、と彼は、言うのだ。
たしかに、現場を何度も踏んでいる嵐山の言葉には、それなりの重みはある。が、はたしてそうであろうか。私は、そうは思わない。
芭蕉にとって、お供のいない旅、世話をやいてくれる人のいない一人旅は、つらいことであろう。道案内のいない旅もきついだろう。しかしなあ、と私は思う。
また、永平寺には、芭蕉の知り合いはいなかったのかもしれないが、何といっても、永平寺は、曹洞宗の大本山。そのすぐ傍まで行きながら、このような大寺、名刹に行かないことってあるだろうか、あんな素晴らしいお寺に、という素朴な疑問もある。
さらに、「・・・とかや」とは、通常は、「・・・ということだ」という、伝聞の意をあらわす場合に用いられる。しかし、はっきりとした断定を避け、詠嘆の情を示す場合にも使われる。加えて、嵐山は、芭蕉の記述の全体について、「とかや」が懸かっている、と取っているようだが、私は、そうではなく、末尾の「貴きゆへ有」という一節についてのみ、「とかや」が懸かっているんだ、と取っている。その方が自然だもの。
嵐山は、<ここの旅程は曾良の『旅日記』がないので、本当のところはわからない>、とも言ってはいるが、この嵐山の直感による「芭蕉、永平寺不参説」、やはり、少し行き過ぎではないかな。空ぶりだ、と私は思う。