主従二人(市振)。

晴れ。
7月12日(新暦8月26日)、芭蕉と曾良の二人は市振に着く。
市振には、この日一晩のみしか泊まっていない。しかし、芭蕉の市振での記述は長い。『おくのほそ道』は、5カ月にも及ぶ長旅の紀行であるが、全篇を通してもとても短い紀行書である。が、この一夜過ごしただけの市振では、長く書いている。
出羽三山の羽黒や象潟での記述よりは短いが、「五月雨の降のこしてや光堂」の平泉と同じくらい。「五月雨をあつめて早し最上川」の最上川での記述や、「閑さや岩にしみ入蝉の声」の立石寺より多い。もちろん、昨日の「荒海や・・・」の半月余の地の文たった4行の越後路の記述よりは、はるかに多い。どうしてか。
フィクションを入れたんだ。芭蕉は、ここ市振(芭蕉は、”一振”と書いているが、曾良は”市振”と書いているし、山本や嵐山も曾良に倣っているいるので、私も曾良に倣う)で、物語をひとつ作ったんだ。艶っぽくもあるが、儚げな感じもする物語を。練りに練った『おくのほそ道』の全体の構成上、こういう要素も必要だ、と芭蕉は考えたのだと思う。
芭蕉は、まずこう書きはじめる。
<今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越えて> ここまでは、事実。
次いで、<つかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ>、と枕を振る。
このあとを、少し端折って芭蕉の書いていることを辿ると、この二人の若い女は、越後の国・新潟の遊女で、伊勢詣りに行く途中。何の因果か落魄の身の上を語り合う二人の話を、聞くともなく聞きながら、芭蕉は寝入る。
翌朝、宿を出る時、二人から、「行方も解らない旅、不安ですので後を追って行ってもいいでしょうか。広い慈悲心をお恵みくださり、私たちにも仏道に入る縁を結ばせてください」と涙ながらに言われる。
しかし、芭蕉は、「お気の毒ではあるが、私たちはあちこち寄っていく旅なので、他の人たちが行く方へお行きなさい。神さまのご加護で無事に着けますから」、と言って発ってきたのだが、哀れな気持ちがしばらく治まらなかった、と書いている。
芭蕉は、このような物語を作った。
そして、このあとに続けて、
     一家に遊女もねたり萩と月
の一句を記す。
嵐山光三郎は、<月を眺め胸がざわめき、花を見て心がはなやぎ、恋に身をこがしてさすらうことが風狂の旅である。・・・月は月山で見た。花は象潟で「ねぶの花」を見た。とくれば越後で恋を登場させなければ歌仙は成立しない>(『芭蕉紀行』)、と述べている。
山本健吉は、<紀行中のいろっぽいヤマバとなっている>、と記しているが、<これもまた「仮の宿」であるこの人生でのはかなしごとだといった観想が、この句にどこかただよっているのである>(『奥の細道』、とも述べている。
ウーン、色艶というよりも、旅に明け暮れる自らと、儚く哀れな二人の遊女の身の上とを、何処かで重ねあわせているようにも、私には感じられる。『おくのほそ道』所載の他の句とは、何となく違う趣、味がある。
芭蕉は最後に、この句を、<曾良にかたれば、書とどめ侍る>、と記している。
ところが、曾良の『俳諧書留』には、この句は載っていない。あの几帳面な曾良が書き留めていない。どうしてか。
歌仙を巻いた折りのものではないからか、そんなことはない。どこかの現場に立った時の句ではないからか、そんなこともない。現実とは違う虚構のものであるためか、そんなこともない。実際には見ていなく、想像で作った句などいっぱいある。虚構の句もある。では、何故なのか。
私は、こう思っている。後に『おくのほそ道』として発表される芭蕉の紀行記は、この旅の途中では、おそらく何が書かれているのか、曾良は知らなかったのだと思われる。芭蕉も見せなかった。曾良は、ただ、天候や行った場所や距離やかかった時間や会った人や、といった事務的なことと、あちこちで詠まれた句を、丁寧に書きとめていた。しかし、その曾良が、「一家に・・・」の句は、書きとめていない。
おそらく曾良は、芭蕉が戯れに軽い気持ちで話した、と思ったのではなかろうか。普通の当たり前の話をしている中で、普通の話のひとつとして。まさか、芭蕉が、思い入れたっぷりの虚構の物語を作り、その押さえとして、この句を作ったなんてことは、露にも思わずに。
後年、この書、『おくのほそ道』が上梓された時、それを見た曾良は驚いたことだろう。