主従二人(直江津)。

晴れ。
選挙があったり、関西へ行っていたりで、しばらくご無沙汰した主従二人の旅に戻ろう。
前回は、酒田から直江津まで、体調不良の上、精神的にも不快なことが幾つも重なり、さんざんな日々であった、というところまでであった。
面白くないな、との思いが強い芭蕉であるが、ここ直江津で、あのよく知られる雄大な句を詠んでいる。
     荒海や佐渡によこたふ天河
である。
この日、旧暦7月7日(新暦8月21日)、七夕の夜である。日本海の荒海の向こうには、佐渡が島が見渡せ、その上空には、織女と牽牛が年に一度の逢瀬を楽しむ天の川が横たわっているな、という句。
この句、直江津で発表されたのは確からしいが、実際に何処で作られたのかについて、出雲崎と直江津で争っている、ということを山本健吉は書いている。その間に位置する柏崎も、ご当地争いに名乗りをあげてもよさそうなものだが、柏崎は芭蕉の宿を断った所、気が引けるのか、引いているそうだ。
おそらく、想を得たのは出雲崎で、それを直江津に来るまで練っていて、直江津で発表したのが合理的だと思う、と山本はしている。地図で見ると、佐渡には出雲崎が一番近いし。
このあと、7月8日(新暦8月22日)から10日(新8月24日)までの3日間は高田、そして、7月11日(新8月25日)には能生に泊まり、7月12日(新8月26日)に市振に着く。酒田から市振まで、通常は9日間で行くところを、16日間かかって。
この長い期間、『おくのほそ道』には、芭蕉は、前回に触れた「文月や・・・」と「荒海や・・・」の二つの句しか記載していない。
しかし、曾良の『俳諧書留』によれば、少なくとも二回歌仙が巻かれている。その中、芭蕉の句だけを記しておこう。
     瀑水躍に急ぐ布つぎて
     薬欄にいづれの花をくさ枕
前者は、直江津での、後者は、高田での句である。
嵐山光三郎は、芭蕉が、直江津でも句会を持ち、数々の句を詠んでいるにも関わらず、それらの句を『おくのほそ道』に留めなかったのは、それらの句が気にいらなかったためだろう、と書いている。そうだと思う。それに加えて、私はこう思う。ともかくこの間の半月ばかりの芭蕉、あまり面白くなかったんだ、精神的にも。
なお、曾良の『俳諧書留』には、「荒海や」の句は、この一句のみ、他の句会の句とは別に記されている。次のように。
       七夕
     荒海や佐渡に横たふ天河    翁
と。