慈照寺(銀閣寺)。

曇り。
洛東歩き、今日は慈照寺。
正しくは、東山慈照寺、臨済宗相国寺派に属する禅寺。が、一般には、俗称の銀閣寺の方がとおりがいい。
金閣寺(鹿苑寺)が金ぴかに輝いているのに比べ、銀色どころか、渋く落ちついた褐色の木肌。(後で触れるが、今は修復中で、風雨に晒された漁師町の家の板壁のような色をしている)それ故、私は、金閣より銀閣の方が好きである。
入場券がわりの小さなパンフレットに、こうある。「銀閣寺の建立は文明14年(1482年)、室町幕府8代将軍・足利義政公による。義政公は、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。この東山殿が銀閣寺の発祥である。東山殿は、義政公を中心に形成された東山文化の発祥地であり、今もなお、銀閣寺には東山文化と禅宗文化の結合をみることができる」と。
この「東山文化と禅宗文化の結合」、なんとなく、解るような感じもする。たしかに、美しいものを生み出したんだ。今、「日本的な美しさ」と言われているような美しさを。「侘び」とか「寂び」とかという考え方のおおもとを。「幽」とか「玄」とかという文字から受ける感覚的な美しさを。このような美しさを日本人は好きなんだ。私も好きだ。いや、日本人ばかりでなく、外国人にも好きな人は多くいる。
しかし、ちょっと待て、ということも考える。
義政がこの銀閣、つまり、東山殿を造ったのは、日本中の守護大名や豪族連中があちこちで、敵味方入り乱れてドンパチ(その頃はまだ鉄砲は入っていなかったが)を繰りひろげた応仁の乱のあと。将軍・義政は、この応仁の乱に関し、大きな責任がある。判断も誤ったし、各地の諸勢力を抑えることもできなかった。それで、政治に嫌気がさしたんだ。「オレは、もう辞めたい。趣味の世界に埋もれたい」と考えたのだろう、と思う。
しかし、一般の民、百姓は困ったろう。が、義政にとっては、そんなことは思いもしなかったんじゃないか、と思われるな。数奇の世界に生きたい、と考える義政には。とんでもない男だ、とも言える。
が、義政にによって東山文化は花開き、お茶、お華、能、建築、庭園等々、今日までさまざまな美しいものが残った。我々日本人が、美しいと思う文化が。矛盾はするが、恩人でもある、とも言えようか。
禅宗文化も、解り易そう、と言えないところに、何かありそう、という文化。
一昨日に触れた親鸞の浄土真宗など、「本願を信じ、念仏をまうさば、仏になる」(『歎異抄』)、つまり、「南無阿弥陀仏」と称えればよろしい、という教え。それにひきかえ、禅では、「悟り」、「座禅」、「公案」など、不明確なものを自ら掴みとらなければならない。大変だけれども、何か深そう、事物に当てはめれば、秘めたる美がありそう、という感もある。
その東山文化と禅宗文化の結合、あくまでも外観だけだが、写真で見てみよう。

銀閣寺への入口、総門。

いわゆる銀閣。現在修理、修復中で、国宝とはいえぬ姿であるが、一層は、書院風、二層は、唐様仏殿様式。本来は、観音殿と呼ばれていたそうだ。

銀閣の二層部分。

屋根のみ。閣上の金銅の鳳凰は、東面し、観音菩薩を祀る銀閣を守っている、とのこと。

柿葺きの銀閣の屋根が置いてあった。
左の説明書きには、サワラの薄い割り板を3センチずつずらしながら、竹釘でとめていく工法、と書いてあった。

銀閣の近くには、波紋を現した銀沙灘と白砂の富士山型の向月台がある。

足利義政の持仏堂であった、国宝・東求堂。一層の入母屋造りで檜皮葺きの現存する最古の書院造り、とある。

境内の洗月泉。

千代の槇。樹齢500年と書いてあるので、丁度、銀閣寺建立の時に植えられたのだろう。

境内こういう道を辿る。

境内には、こういう注意書きの板が、何カ所かあった。

境内。

これも境内の一景。山中の趣がある。

こういう頑張っている木もあった。

銀閣寺全景。向こうに見えるのが、京の町。
そう言えば、先ほど足利義政のことを考えていて思いついたんだが、暫く前、一年足らずで政権を突然投げ出し、陶芸とお茶の世界に入った元総理の細川護熙さんは、足利義政に似てるな。
肥後熊本のお殿様であるし、小沢一郎と武村正義のバトルに収拾がつけられず、嫌気がさし、政治の世界から離れ、数奇の世界に生きてるのも。ちょうど義政が、守護大名や豪族のごたごたを抑えられず、嫌気がさし、政治の世界から離れた数奇の世界に埋没していったのと。また、余計なことを書いちゃったかな。