100年前の列強がなしたこと。

曇り。
8月30日、京都国立博物館へ行く。「シルクロード 文字を辿って・・・ロシア探検隊収集の文物」展、観る。
パンフレットには、こうある。敦煌を中心とする西域出土の文献は、全世界に5万点あり、今、その多くは中国、イギリス、フランス、ロシア、にある、という。この展覧会は、ロシア・サンクトペテルブルグにあるロシア科学アカデミー東洋写本研究所に所蔵されている、ロシア探検隊が敦煌及び中央アジア各地で発見した貴重な文献を、敦煌学発祥の地、京都で公開するもの、とある。
タイトルに「文字を辿って」、とあるように、文字どおり経典、写本の断簡が多い。敦煌はじめコータン(ホータンの方が一般的ではないか、と思うが本展ではコータン表記)、クチャ、トルファンなどで発見された文献、約150点。時代は、4世紀から12世紀にかけてのもの。
地味な展覧会である。何点かの絵、画像といったものはあるが、大部分は文字のみ。漢語はもちろん、西夏語、コータン語、トハラ語、ソグド語、チベット語、等々さまざまな言語の文献、経典、その断簡。私などには、もちろん何ひとつ読めない。しかし、これが思いのほか面白い。美しい。
特に、どの字も字画が驚くほど多く、左右へのハネが目立つ西夏文字、それに、墨の中に、深い知が凝縮されているようなチベット文字には、魅かれた。美しい、と感じた。
ロシアの西域探検では、オルデンブルグの探検隊が知られているが、彼以外にも多くの探検家が歩いている。自然科学者、美術研究者、宗教学者などが。この展覧会のオーディオガイドでも、敦煌からもたらされた、とサラッと言っている。
国際敦煌プロジェクトにも触れられている。本部は、大英図書館に置かれているらしい。傲慢かつ狡猾な100年前の列強諸国は、100年後の今、各国のみなさん紳士的に敦煌学の研究に勤しんでいる、ということだろう。100年前には無知蒙昧な国とみていた清、今の中国の学者もまじえて。もちろん、日本の学者も加わっている。
それにつけても、敦煌文献(敦煌文書)を思わざるを得ない。
1900年、敦煌の石窟寺院(莫高窟)の16窟に住みついていた道教の坊主・王円ロク(竹冠に録)が、16窟につながる小さな17窟を発見。いつも吸っていたアヘンの煙が吸い込まれているところがあるので。中には、多くの経典、写本がつまっていた。彼は、役人に報告するが、時は清朝末期、地方役人はそのまま塞いでおけ、というばかり。
1907年、噂を聞きつけたイギリスのオーレル・スタインが敦煌に来る。スタインは、言葉巧みに王円ロクを籠絡、僅かなはした金(多くの書では、馬蹄銀4枚と記されている。全くのあてずっぽうではあるが、今まで幾つかの途上国を歩いてきた私の感覚では、今の貨幣単位でも、おそらく数万円程度ではないか、と考えている)を王円ロクにつかませ、1万点の文献を手に入れ、ロンドンに持ち帰る。今、大英博物館と大英図書館にそれはある。スタインは、この功績でサーの称号を受ける。
1908年、スタインの噂を聞きつけたフランスの探検家ポール・ペリオが敦煌に来る。彼はスタインと違い、中国語も堪能、さらに経典や写本についての知識も深い男、王円ロクと直に話し、残された文物の中から価値の高い物を選び出し、やはり僅かな馬蹄銀と交換に約6000点の文献を持ち出す。今、パリの国立図書館とギメ美術館に収められている。
しかし、ペリオは、持ちだした敦煌文献をパリに送る前に、北京でその一部を展示する。それを見て、いかに疲弊した末期だとはいえ清朝は驚く。そんなに貴重な物なのかと。急いで残った文献を北京へ運ばせる。
1912年、日本の大谷探検隊が敦煌へ行く。浄土真宗本願寺派の第22代法主・大谷光瑞が派遣した第3次の大谷探検隊である。隊員は、橘瑞超と吉川小一郎の二人。まだ残っていた文物を手に入れる。スタインやペリオには及びもつかぬ数のものを。今、文献は京都の龍谷大学、彫像等は東京・上野の国立博物館、そして、一部は、ソウルの国立中央博物館にある。
少し横道にそれるが、私は、上野の博物館にある大谷探検隊招来品の中で、高さ10センチ足らずの小さな仏頭が好きである。トルファン出土のもので、高い髷を結い、一部欠けがあるものではあるが。
1914年、ロシアのセルゲイ・オルデンブルグの探検隊が敦煌に来て、数百点の文物を持ち帰る。今、サンクトペテルブルグの科学アカデミーとエルミタージュ美術館にある。
日本とロシアは遅れた列強なんだ。英仏のおこぼれを持ち帰った。100年前の世界情勢を考えると当然だ。しかし、幾らかの書を読むかぎり、日本もロシアも、高慢、狡猾なイギリスやフランスに較べ、紳士的な感を受ける。
その10年後、1924年、アメリカのラングドン・ウォーナー探検隊が敦煌に来る。これが評判が悪い、とんでもないことをした。敦煌石窟・莫高窟の壁画を剥ぎ取っていった。剥離剤を使って。26面もの壁画を。彫像も持ち帰っている。これらは今、ハーバード大学とその付属のフォッグ美術館にある。
ウォーナーは、東洋美術への造詣が深い学者。第2次世界大戦の折、奈良、京都のような古都など文化的価値の高い所への爆撃はするな、とのウォーナー・リスト(そうではない、との説もあるが)でも知られる。しかし、そのウォーナーにしても剥ぎ取っていったのだ。やはり、先進国の高慢、傲慢さが出たのだろう。オレが持ち帰って研究してやろう、との。
私が、敦煌・莫高窟へ行ったのは、10年ぐらい前、2日間通った。敦煌では、100年前の欧米列強のなしたること全て、強盗、盗人と言っているが、中でも、壁画を剥ぎ取っていったウォーナーの所業は、その最たるものとして、悪評芬芬である。ウォーナー自身そういう考えはなかった、と私は思うが、やはり、先進国の高慢、傲慢な所業には違いない。
敦煌文献(敦煌文書)の変遷については多くの人がさまざま書いているが、私の知る限り、最も解りやすいものは、陳舜臣の『敦煌の旅』である。とても平易な文章で敦煌について書かれている。ウォーナーについても、陳さんらしい抑えた静かな書き方で。