人間芭蕉。

晴れ。
芭蕉主従の行動で、不思議なことが幾つかある。
直江津で紹介された聴信寺での宿を断られ、腹を立て、再三の引き留めにもかかわらず、首を振らなかった芭蕉、丁度雨が降ってきたので、シブシブを装いながらも、内心これ幸いと、寺に戻る。
ここまでは、昨日記し、そのあと、この寺に泊まった、と書いた。翌日も雨だったのでここに泊まった、と書いた。しかし、これは間違いだった。寺に戻ったところまでは事実らしいが、泊まったのは、古川という宿のようだ。曾良の『旅日記』の<幸ト帰ル>のあとに、<宿、古川市左衛門方ヲ云付ル>とあるからだ。
主語がないので、推測する以外ないのだが、この”云付ル”というのは、誰が宿を言いつけたのであろうか、ということだ。土地不案内の芭蕉が言った言葉ではないだろう。ということは、ことの顛末を知って人を追いかけさせた石井善次良か、ヒョッとすると、聴信寺の和尚かもしれないのだ。芭蕉主従が訪ねた時には留守にしており、事情を知らぬ下の者がひどい応対をし、主従が寺に戻った後、初めてことの次第を知った、ということもあり得るな、とも思われる。何故か。
曾良は、上記の<・・・云付ル>のあと、<夜ニ至テ、各来ル。発句有>と記している。実は、芭蕉のことを聞きつけて、その夜、何人もの俳諧をたしなむ客が来るんだ。田舎(地方の町を、すぐ田舎と書いちゃうのはまずいんだが)とはいえ、直江津は中心地、俳諧自慢の人も多い、と思える。そして、歌仙を巻く。曾良の『俳諧書留』にある。その発句は、
     文月や六日も常の夜には似ず     はせを
である。
その折の歌仙に参加している中に、眠鴎なる名の人がおり、その右肩に聴信寺と書いてある。おそらく、この眠鴎なる人、聴信寺の和尚であろう。いかに何でも、失礼な対応をしたすぐ後で同じく歌仙を巻く、ということはあるまい。やはり、最初主従が訪ねた折には、和尚はいなかったのであろう。そうは言っても、芭蕉の腹の虫は、治まったわけではなかったようだが。どうしてか。
翌7日(新暦8月21日)、聴信寺から再三お招きがくるが、そのたびに芭蕉は断っている。お招きは夕方まで続いたそうだ。聴信寺という名を聞くだけで、芭蕉は面白くなかったんだな。冷静で人間のできている曾良は、「宗匠、もういい加減に」と思っていたかもしれないが、その点、大宗匠ではあるが、人間ができていないところのある芭蕉の腹は、なかなか横にはならなかったんだな。人間らしくて、面白い。