主従二人(酒田、象潟)。

曇り。
暑いと思考力も鈍り、ボーとしていることが多いのが普通だが、日本の8月は違う。
新暦の御盆の時季でもあるし、今生きている日本人の責務としての黙祷や個人としての追悼もあるし、当然のこととして、それらについての由無し事を考えることもある。そうは言っても、何日かは、碌に飯も食わず、グターとしている日もあるが、日本の暑い8月は、熱い8月でもあり、なんやかやある月だ。
ずいぶんご無沙汰をした芭蕉と曾良の主従二人を追いかける。2週間ぶりになるな。
前回は、旧暦6月13日(新暦7月29日)に、酒田の医者・伊東玄順の屋敷に着いたところまでだった。その時から言えば、ひと月とは言わないまでも、それに近い日が経っているのだが、この間の彼ら二人、象潟に行った以外、そうたいしたことはしていない。
『おくのほそ道』にも、この間の芭蕉の記述は、文庫本でもわずか4ページのみ。ほとんどは、象潟の記述。
その前に、酒田に着いた翌日、14日に、寺島彦助亭で七吟の連句を興行している。
その時の発句は、曾良の『俳諧書留』には、
     涼しさや海に入たる最上川
とある。『おくのほそ道』には、もちろん、練りに練った最終決定句、
     暑き日を海にいれたり最上川
とあるが、私の副読本・山本健吉は、<芭蕉は酒田滞在中に日本海に入る夕日を見、その印象が心にあって『奥の細道』の決定稿を書いた元禄六年までの間に「暑き日を」の句ができたのではないか>と推測している。
これまでもそうだったが、芭蕉は、地の文も、句自体も、何年もかけて、推敲に推敲を重ね、練りに練っている。「大宗匠であるオレの書くものに」という意識は、おどろくほど。すごい、と感じる。
そのくせ、日時などの事務的なことは大雑把で、事実と異なることもところどころあるのだが。しかし、どのような世界でもそうだが、大将はそれでいいんだ。細かいことなど気にしなくて。芭蕉の場合は、そういう事務的な細かいことは、お付きの弟子・曾良が、こと細かく書きとめているのだから。
翌6月15日(新歴7月31日)、二人は象潟へ行く。
芭蕉は、こう書く。<江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。>と。象潟に心が急き立てられる、と。象潟は、松島と共に、芭蕉の憧れの地だったんだ。
曾良の『旅日記』によれば、その日は吹浦に泊まり、憧れの象潟には、その翌日の16日に着いたようだ。曾良によれば、象潟を目指した15日は、朝から小雨が降り、吹浦に到る前にはひどい降りになったので、昼ごろには吹浦の宿に入ったそうだ。本当に几帳面だな、曾良は。
翌16日も雨(曾良が、<衣類借リテ濡衣干ス>と記しているくらいだから、相当降ったのだろう)で、象潟を離れる17日も、午前中まで雨降りだったようだ。
しかし、雨中の象潟、芭蕉にとっては、この上ないシチュエーションだったんじゃないかな。芭蕉は、こう書く。
<松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。>と。そして、あのなんともいえぬ趣深い句
     象潟や雨に西施がねぶの花
を詠む。
山本は、この句も初めは、
     象潟の雨や西施が合歓の花
だったが、そのテニヲハを2か所直しただけで句に余情が生じてきた、と書いている。そう言われれば、そういう気がしてくるな。われわれ凡夫には。
しかし、この句、どこか、なんとなく、秘めた艶っぽさ、愁いを秘した美しさ、哀しさを感じるな。凡夫にも。
それにしても、西施とは、どのような美女だったのだろう。気になる。
春秋時代というから今から2500年くらい前(なんだ、孔子と同じころの美女じゃないか)の越の美女。中国四大美人の一人ではあるが、「憂いに沈む美人の風情」という芭蕉の記述に重ねあわせてみると、大分時代が下がるが、同じ中国四大美人の一人である豊満な楊貴妃とはまったく異なるタイプの、憂いを含んだ細面で柳腰のほっそりとしたタイプの美人ではなかったか、と私は考える。
主従二人の旅の続きは、また明日にしよう。今日は、ここまで。