主従二人(鶴岡、酒田)。

薄曇り、晴れ。
旅を続ける主従二人を追っかけよう。
旧暦6月10日(新暦7月26日)、それまで1週間滞在した羽黒山を発ち、芭蕉と曾良の主従二人は、申の刻(夕方4時ごろ)鶴岡の長山五良右衛門宅に入る。
<粥ヲ望、終テ眠休シテ>、その後、歌仙を巻き始める。曾良の『俳諧書留』によれば、芭蕉、曾良、重行、露丸による四吟歌仙。この露丸は、4日の羽黒山本坊での俳諧興行にも参加しているので、おそらく芭蕉主従と同道してきたのだな。
翌11日(27日)、曾良の『旅日記』には、<折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。>とあり、
その翌日の12日(28日)には、<朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。>と記されている。2日目に芭蕉は体調を崩しているようだが、3日間かけてこの時の歌仙は巻きあがったんだ。発句は、
     めづらしや山をいで羽の初茄子    翁       
である。
6月13日(新暦7月29日)、最上川を下り、酒田に入る。芭蕉の憧れの地のひとつである、象潟へのいわばベースキャンプの地だ。この酒田への道、さして意味あることではないが、少しおもしろく感じたので、芭蕉と曾良、二人の記述を並べてみよう。まあ、とても短い文でもあるので。
芭蕉は、<川舟に乗りて、酒田の湊に下る。>と記し、曾良は、<川船ニテ坂田に趣。>と記している。「ふね」及び「さかた」の「さか」の字が両者異なるが、言っていることは同じじゃないかと言えば、確かにそうなのだが、違うと言えば違う、とも感じられるのだ。芭蕉と曾良の記述が、逆であっていいように思うんだ。何故なら、前者の方が、やや詳細。
この件、芭蕉の記述はこれのみだが、曾良の記述はこれに続けて、鶴岡から酒田までの距離は7里だとか、羽黒から飛脚がきてどうこうとかの文が続くのだが。ま、それは何時ものことなので当たり前。
酒田にはこの日から象潟に出向いた3日間を除き、6月24日(新暦8月9日、ということは明日だ)まで滞在する。滞在先は、酒田の医者である伊東玄順の屋敷。彼もまた、芭蕉のタニマチのひとりなんだろう。俳号を淵庵不玉という俳人でもある。