主従二人(最上川)。

晴れ、夕刻雨。
芭蕉と曾良の主従二人には、このところ、とんとご無沙汰している。
4日前のブログに、大石田から最上川を下った芭蕉と曾良の二人は、今は羽黒山の南谷にいる、と1行のみ記したが、昨日羽黒山から鶴岡へ発った模様。
なお、大石田で気の進まぬ歌仙を巻いた折の発句、「五月雨を集めて涼し最上川」が、後に有名な 「五月雨をあつめて早し最上川」となったことについて、私の副読本の山本健吉は、<「あつめて早し」という句は、いつできたかわからない。改作された形を、曾良は書き留めていないし、元禄4年の『猿蓑』にも採られていないから、ずっと晩年になって改めたのであろう。たった二字の入れかえで、この句は面目を一新した。>と記している。
元禄4年といえば、主従二人が奥の旅をした2年も後。そのさらに後というのであるから、ひとつの句を完成させるのに、何年もの時間をかけているんだ、芭蕉は。もっとも山本は、<出羽の国にはいってから、芭蕉は最上川を詠むことにひどく執心したが、この句に至ってその望みを果たしたのである。>と記しているので、芭蕉自身この最上川の舟下りに、はじめから入れ込んでいたんだな。
3〜4年前、学校のクラス会で、山形出身の男が幹事をした時、私も最上川の川下りをしたことがある。新庄近辺から舟に乗り、酒田近辺まで1時間ばかりの舟下り。「最上川舟唄」を唄った船頭は、日本語ばかりでなく、英語や韓国語バージョンもある、といっていた。海外から来る観光客、今や、奈良、京都といった定番コースや浦安のディズニー・ランド、秋葉原の電気街といったお楽しみコースばかりでなく、こんなところまで来ているのだろう。
そういや、この舟下り、「芭蕉ライン」と称していたような気がする。記憶、不確かだが。
その後の羽黒山での芭蕉主従については、そのうちゆっくりと書いてみよう。1週間ほど留まるこの地で、二人は月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山に詣でており、それぞれの句を残しているが、私の参考書の嵐山光三郎によれば、<出羽三山こそは『細道』の旅のもっとも重要な目的地であった。>と記し、また、<曾良は『細道』の旅のはじめから、出羽三山参りをすることが最終の目的であった。>とも記している。
『おくのほそ道』のハイライト、少なくとも気合いを入れていた所のひとつなんだ、ここは。のんびりとした気分の折りに、ゆっくりと読み直してみよう。