「住み果つる慣らひ」考(17)。

江國滋が死ぬ丁度10年前の1987年7月、千葉敦子がニューヨークで死ぬ。やはり壮絶ながんとの闘いの末。
共にがんと凄まじい戦いをしているのであるが、日米のと言うか東京とニューヨークのというか、決定的に異なることがある。
江國滋は、国立がんセンターに入院していた。が、やはりあちこちに転移し末期である千葉敦子は、そのほとんどを病院の外にいる。厳しい状況の中でも仕事を続けている。
何故そんなことができるのか。
最後まで献身的に江國滋を支える奥方や、今や親父さんよりもよく知られる長女の江國香織、さらに江國滋がその結婚まではと願っていた次女、このような家族の皆さまが江國滋にはいた。
しかし、ニューヨークの千葉敦子は独身なんだ。が、周りに多くの友人がいるんだ。彼ら、彼女らが千葉敦子を援ける、支える。
<私は徹底的なリアリストだから、自分の病気の将来に幻想は抱いていない。見通しが暗いことは、自覚症状からも、・・・・・、・・・・・>(千葉敦子著『「死への準備」日記』 朝日新聞社 1987年刊)。
30年ぐらい前の本か。昨日の江國滋の本は20年ぐらい前のものか。2、30年前あたりこの手の本をめったやたら買っていた。禄でもないものも含めて。27、8年前胃がんになり、胃を2/3少し切除したということがあるのかもしれない。
この頃は、この手のものに限らずよく買っていたが、ほとんど読まなかった。積読専門であった。千葉敦子の書もそうである。今回、最後まで目を通した。
千葉敦子、強い人である。が、ご自身が徹底的なリアリストと言うように厳しいんだ。周りの人にも。
特に頭のない人に対しては。金井美恵子を思いだす。イヤミな女だねー、ってところも。
『「死への準備」日記』、1986年11月21日号から1987年7月24日号の『朝日ジャーナル』に連載されたものである。千葉敦子の死の直後、単行本化された。
「声の喪に服する」から始まる。
<81年の初めから病んでいた乳癌が、縦隔膜のリンパ節に転移し、その影響で声を失ってしまった>、と。
<私の葬式はなしで、遺体は病理解剖ののちに火葬してもらい、骨だけを東京の家族に送って、上野の寛永寺にある千葉家の墓地に埋めてもらうつもりだ>、と千葉敦子。
1987年、ソ連のゴルバチョフによる「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」が始まったころである。強硬な反共主義者であるサッチャーが、どうやらゴルバチョフに惹かれているようだとか、パウル・クレー展、ゴッホ展などへの言及もある。
「人生に求めたものは」という詩のようなものがある。
     新聞記者になりたいと思った
     新聞記者になった
から始まる。
     世界を旅したいと思った
     世界を旅した
     プラハで恋をした
     パリで恋を失った
     リスボンでファドを聞いた
     カルグリで金鉱の中を歩いた
     本を書きたいと思った
     本を書いた
     ・・・・・
     ・・・・・
     ニューヨークに住みたいと思った
     ニューヨークに住んだ
     ・・・・・
     ・・・・・
     私が人生に求めたものは
     みな得られたのだ
     いつこの世を去ろうとも
     悔いはひとつもない
     ひとつも
千葉敦子、46歳で死ぬのだが、まさに「見るべきものは見つ」である。
1987年6月5日号の『朝日ジャーナル』。
「がんが小脳にあらわれた」、と記される。
癌細胞、脳に転移した。
10日間入院したが、退院する。友達連中がすべてやってくれていた新しいアパートへ。
千葉敦子、何かあると住む所を変える。ニューヨークへ行ったのも乳がんが再発したから。頭へがんが転移したとなったら、エイヤッっと宿替えを考える。ニューヨーク、マンハッタン、グリニッチ・ビレッジ近くのアパートへ。引っ越し作業は、すべて友達連中がやってくれる。まあ、そこそこの物件、家賃は日本円で20数万といったところ。
死の少し前には、メトロポリタン・オペラ劇場にルドルフ・ヌレエフ振り付けのバレエ『シンデレラ』を観に行っている。
興味、全方位、といった人生なんだ。千葉敦子の人生。
<体調悪化し原稿書けなくなりました。多分また入院です。申しわけありません>、とニューヨーク時間7月7日午前11時11分に発信されている。
その2日後、千葉敦子は緊急入院先の病院で死ぬ。
千葉敦子、東京新聞の経済記者時代、ニーマン基金でハーバードの大学院へ留学している。で、千葉敦子、自分が死んだ後、著書の印税や何やかや幾らあるのかは分からないが基金を作ることを友人に託する。日本以外のアジアのジャーナリストにとっては役に立つであろう、と考えて。
自身も得たハーバードのニーマン基金と合わせ「チバ・ニーマン基金」が設立されたそうだ。
千葉敦子、限られた時間を生きたいように生きた、と言えるのでは。