ガチンコ考。

「オレは首尾一貫ぶれないよ」、なんてことを言う人がいるが、そんなことはない。本人がそう思っているだけで、客観視すれば大抵の人はぶれている。
が、ごく稀にこの人はぶれないな、という人がいる。ごくごく稀れに。はっきり言ってつき合いづらいよ、そういう人。「オレの考え」を押し通すのだから。まったくぶれずに。
ガチンコである。人生すべてガチンコ勝負、といっていいであろう。
今の時代、HPを持っていない相撲部屋は少ない。取り残される。だから多くの部屋はそれぞれのHP・Webサイトを開いている。が、貴乃花部屋のHPには、他に例を見ないページがある。いかにもってものである。
「貴乃花部屋 訓辞」である。10条にわたっている。
第1条 力士道に忠実に向き合い日々の精進努力を絶やさぬ事。
第2条 人の道に外れないよう自身を鍛え勝負に備える事。
第3条 弱き者を援け強き己を築き上げる事。
このような文言が10条にわたって記されている。
「力士道」、「人の道」、「弱き者を」、ウーン凄い。信念に基づいた言葉であろう。貴乃花、そういう男なんだ。こうでなきゃならないって思いを貫くんだ。
昨日、九州場所千秋楽の打ち上げの席で貴乃花、部屋の後援者たちに対し挨拶をしている。
貴ノ岩の容態や来場所は三役に昇進するであろう貴景勝についても話しているが、こういう言葉も出てくる。
「国体を担っていける角道を」、と。
国体?
「国体」と聞くと、昭和20年8月の御前会議での「国体護持」が頭に浮かぶ。貴乃花はそれよりはるかに後の世代であるが、「国体」という言葉が内包する意味合いは、そう違っていない。同じようなものかもしれない。
「国体」に続けて「角道」がくる。ガチンコだ。貴乃花、まったく変わらない。ガチンコ勝負をしている。
私は、日馬富士、貴ノ岩騒動に関しては、協会の理事であり巡業部長としての貴乃花の対応に疑問を持っている。そりゃおかしいよ、と。貴乃花には彼独自の論理があろうとも。
しかし貴乃花、周りが何と言おうと、オレはオレ、まったくぶれない。ガチンコ勝負をしかけている。良い悪いを超越している。
ガチンコ、以前にも記した覚えがあるが、忘れられない一番がある。
今の相撲観戦、テレビの前ばかりである。が、仕事をリタイアする前の10数年の間、年に1回、時には2回、国技館の桝席で観ていた頃がある。今でもそういうことは多いのであろうが、接待相撲、取引先に招待されての桝席観戦である。
桝席で飲み食いをしながら土俵を見る。これが何とも言えないが、今は措く。10数年間におそらく数百番の取組みを観たであろう。しかし、その取り組みまったく憶えていない。ただ一番を除き。その取り組みだけは今でも鮮明に憶えている。
平成9年(1997年)9月場所の11日目の一番である。
大関から落ちて時も経ち前頭であった小錦と横綱貴乃花の一番が組まれた。その日までの小錦、休みを挟み全敗であった。力の落ちた小錦の対戦相手、みなヒョイと変化して足腰の弱った小錦をころがす。みな手軽な相撲を取っていた。
しかし、貴乃花は違った。
貴乃花、全盛期から円熟期に入っていたが、大横綱の貴乃花は、他の力士とはまったく異なった相撲を取った。力の落ちた小錦に対しガチンコの相撲を取ったんだ。
小錦の突進を真正面から受けとめた。力が落ちたとはいえ巨体の小錦をガチンと受けた貴乃花、ズズッと土俵際まで後退した。貴乃花、そこで投げを打ち勝つのだが、涙があふれ出た。
貴乃花ファンではなかった私であるが、涙が止まらなかった。貴乃花、なんて凄い横綱なんだ。なんて凄い男なんだ、と。
小錦は、その翌場所引退する。
貴乃花は、小錦の対横綱戦はおそらくこれが最後であろう、と考えていたに違いない。角界の先輩である小錦に対し失礼にならない相撲を取らなければならない、とも。
で、ガチンコで応じよう、と。
良くも悪くも、貴乃花の人生、ガチンコなんだ。
今もそう。貴乃花、ガチンコ勝負を挑んでいる。


今日、横審が開かれた。
日馬富士に対する処分は持ち越しになった。全容解明がなされていないのだから当然であろう。
白鵬の昨日の優勝インタビューでの発言や、貴乃花親方の協会に対するガチンコ態度に関しては、少なからぬ疑念が出たようだ。横審の皆さま、はっきり言って沈香も焚かず屁もひらず、と言った日本を代表する識者の皆さまであるから、そうであろう。
鶴竜と稀勢の里といったふがいない横綱に対しては、ゆっくり体調を整えて、と優しい意見が出たそうだ。甘いな。
ガチンコなんて概念、横審の識者の皆さまには、その理解の領域を超えていることであろう。