あゝ新宿展。

スペクタクルとしての都市、というサブタイトルがついている。1960年代の新宿である。そう、60年代の新宿はスペクタクル、熱かった。
夏前、早稲田の演博で、60年代新宿を問う展覧会が催された。

演博へ行くのは久しぶり。

ふんどし一丁の唐十郎と吉右衛門が並んでいる。

新宿展は2階。

「新宿」の上に「あゝ」ってつく。
ノスタルジックな趣きがある。が、それはそうだ。50年も前のことだから。

スペクタクルであった。50年前の新宿。

紀伊国屋。
風月堂や中村屋、ピットイン、DIG、DUG、アートシアター新宿文化、花園神社、ゴールデン街、・・・・・、60年代新宿を象徴する場はさまざまあるが、まず頭にくるのは、やはり紀伊国屋か。
紀伊国屋、1964年に今のビルに建て替えられた。

京王プラザや東京都庁、その他、今スカイスクレーバーとなっている新宿西口、1965年までは淀橋浄水場であった。
1963年4月に死ぬまで1年余、親父が東京医大に入院していたので、淀橋浄水場の横は学校帰りによく通った。

すぐ横の部屋に、「磯崎新の祝祭都市」なる展示があった。

磯崎新、新都庁舎のコンペに唯一低層階のプランを出した。
選ばれたプランは、地上243メートルの丹下健三案。このところの何代かの知事、困った人が何人か続いた都庁舎。
丹下健三の都庁舎、あまりにもデカイので、意思疎通が上手くいかず、中央卸売市場の豊洲への移転問題でも、「オレはしらない」、「オレは知らない」、ということばかり。
大御所・丹下健三ではなく、気鋭の磯崎新ならば、豊洲移転問題のゴタゴタもなかったかもしれない。

磯崎新の作品。

磯崎新が何と言っても、時代は重厚長大の時代であったな。
私が磯崎新で思い出す建物は、「新宿のホワイトハウス」と言われた吉村益信のアトリエである。
1957年、磯崎新の設計。新宿百人町にあった。1960年だったか、結核療養所を抜け出し恐る恐る訪ねると、ネオダダ・オルガナイザーズの面々車座になって酒盛りの最中。アトリエに入ってくる者をジロリとねめつけていた。

右は、磯崎新の”東京都新庁舎計画、「天・地・人の間」”。シルクスクリーン。幻のプラン。
左の文字、まさにこうであった。
写真を撮ることはできなかったが、60年代の新宿、次々と露わされていた。唐十郎の紅テント、大島渚の作品。唐十郎、横尾忠則、横山リエ、・・・。

左は、アートシアター新宿文化、ATGだ。
右は、花園神社の状況劇場。
新宿は早稲田である。
3年になった4月、親父が死んだ。何とか金をかき集め葬式を出した。が、後は一銭の金もない。
3年になったばかりであった。奨学金を申請に行った。しかし、奨学金は認められなかった。
「金に困っている学生に出すのが奨学金ではないのですか」、と私は言った。が、事務所の人はこう言った。「そうではあるのですが、成績が良くないと」、と。「解りました。結構です」、と言った。早稲田、貧乏人の子倅が来る大学であるが、その貧乏人にも厳しいことがある。冷たいんだ。
が、早稲田、そうでもないこともある。
その後、私は結核の再発で休学したり復学したりをしていた。学校にはほとんど行っていなかった。
ギリギリの8年となった。
卒論の提出が遅れた。が、卒業できた。
素晴らしい先生がいたからである。安井俊夫先生という。安井先生、アル中で手が震えていた。新聞学の先生であったが、体育局の局長でもあった。早稲田の体育局の局長、学内実力者である。学部長などより、その影響力は強いかもしれない。
安井先生、私の卒業を教授会にかけてくれた。
で、卒業となった。こんなこと、そうあるものではないであろうが。先生からは、「このドアホ」、と怒られたが。

「いま新宿に文化はあるか?」、と問いかけている。

ふんどし一丁で、新宿西口の小田急前に立つ唐十郎が体現する文化があるか、と。