インディアン・ミュージアムの廊下や庭先には、古くて大きな仏像がごろごろしていた。

IS(ISIS、ISIL)などという狂信的な組織が出てきて、イスラムの国は怖い、アラブの地はヤバい、ということになっているが、30年ぐらい前には、この地上で最も混沌とした町はインドのカルカッタである、と言われていた。
その当時のカルカッタ(広域)の人口は、約1200万人。が、その内の約200万人が家を持たない路上生活者、と言われていた。生れてから死ぬまで路上で暮らす、という人も多くいた。日本では考えられないような状況があちこちで起こっていた。
そのカルカッタへ初めて行ったのは、1988年の3月。デリーからアグラ、バラナシと汽車を乗り継いでカルカッタへ入った。人、車、リクシャー、動物、あらゆるもので、町中がむせかえっていた。

今月初めの東博正面の看板。
「インドの仏」。一番上に「特別展 コルカタ・インド博物館所蔵」となっている。
カルカッタという名は、古い名のコルカタに変わった。しかし、私にはカルカッタの方がよく馴染む。コルカタには3度行ったが、いずれもカルカッタ時代である故であろう。
インディアン・ミュージアム(インド博物館)は、カルカッタの目抜き通り、チョーリンギー通り(正式な名称は、インドの初代首相に因んだジャワハルラル・ネルー通り)に面している。
だが、すぐ側の横丁は、30年近く前には一泊100円〜200円程度の安宿が立ち並ぶサダル・ストリート。サダル・ストリートの宿も、今では一泊1000円か2000円ぐらいになっているのかもしれない。実は、カルカッタではサダル・ストリートの安宿とは対極の宿に泊まっていたが、サダル・ストリートからインディアン・ミュージアムの界隈、懐かしい。

探したら、インディアン・ミュージアムの図録が2冊出てきた。
左の図録には、1988年3月2日、との書きこみがある。27年前か。右の図録には、1990年9月の書きこみが。その3、4年後にもカルカッタへ行っているが、その時のものはない。
インディアン・ミュージアムへの入館料は、いずれも2ルピー。当時の為替レートは1ルピーが10円。だから、インディアン・ミュージアムへの入場料は20円だったんだな。
なお、インディアン・ミュージアムの創立は1814年、200年の歴史を持つ。アジア最古の博物館、と言われている。総合博物館である。美術に特化したものではなく、東京で言えば、上野の東博と科学博物館を合わせたようなものである。
しかし、2〜30年前のカルカッタのインディアン・ミュージアム、ゆとりがなかった。古いであろう大きな仏像が廊下や庭先にごろごろと置かれていた。きちんと整理し展示する、というにはほど遠い状態であった。この廊下の仏像、日本へ持ってくれば凄いであろう、と思われるものがごろごろと。

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カルカッタ(コルカタ)のインディアン・ミュージアムから持ってきた特別展、平成館ではなく表慶館で催されている。

表慶館の正面、ミドリのライオンがいる、な。
以下の作品写真は、チラシを複写する。

最初は仏像は作られなかったんだ。
最初期の仏教美術は、釈迦の墓であるストゥーパ(仏塔)の装飾から始まった。
左は、菩提樹(カナカムニ仏)の礼拝。バールフット出土 シュンガ朝・前2世紀頃。ストゥーパを囲う石製の垣根(欗楯)に表わされた彫刻。
右は、カサルパナ観音立像。パーラ朝(11〜12世紀頃)。

左は、仏伝「出家踰城」。クシャーン朝(2世紀頃)。
右は、仏足石。ハーラ朝(11世紀頃)。

左は、奉献塔。パーラ朝(8世紀頃)。ストゥーパだ。
右は、仏坐像。クシャーン朝(1世紀頃)。マトゥーラの仏である。

左は、摩利支天立像。パーラ朝(11世紀頃)。
右は、四相図。グプタ朝(5世紀頃)。
四相図とは、釈迦の誕生、出家、初転法輪、涅槃の4大事を表わしたもの。

八千頌般若波羅密多経パーラ朝(11世紀頃)。
<ヤシの葉に経を記したいわゆる貝葉経で・・・>、と説明にある。
音声ガイドは、みうらじゅんといとうせいこうの見仏記2人組。彼らのかけ合い、自分たちだけがはしゃいでいる、といったもので今ひとつであった。
現在の為替レート、1ルピーは2円。だが、インディアン・ミュージアムへの入館料は150ルピー、300円であるようだ。2〜30年前には20円だったんだから15倍である。
その間、原爆も持ちBRIC’sの一員ともなったインド、まともな推移なのか、な。
整理されずインディアン・ミュージアムの廊下や庭先にごろごろとしていた仏像たちは、どうなっているのだろう。