日本のこころと美 2014 奥宣憲書作展。

絵は好きであちこちの展覧会へも行くが、書の世界にはまったく冥い。
4月下旬、日本表現派の展覧会を観に行った折り、美術関連の新聞を貰った。そこにどこか気になることが出ていた。書の展覧会のことである。切り抜いて、その数日後に行なわれた叔父の法事の折りに持って行った。その方面のことには詳しいであろう従兄弟の連れ合いに訊くために。
切り抜きを見せると、たちどころに分かった。誰々の子供が誰々で、その兄弟の誰々が誰で、・・・・・、と。何と、親戚である、と言う。と言うことは、私にとっても遠い親戚にあたることになる。今までまったく知らなかったが。

5月下旬の雨の日、「日本のこころと美 2014 奥宣憲書作展」を観に、銀座1丁目のギャラリーへ行った。

ギャラリー内の模様。

こちら側も。
奥の方に見える右側の男が作家の奥宣憲。

このような文言が貼りだされていた。
今年は、松尾芭蕉(1644ー1694)の生誕370年、没後320年にあたるそうだ。

     梅可香や見ぬ世の人に御意を得留(芭蕉句)

     獺の祭見て来よ瀬田のおく(芭蕉句)

     花の雲鐘ハ上野か浅草か(芭蕉句)

<「風雅」 広義には詩歌・連俳・絵・茶などにわたっていう。蕉門では俳諧をいう。「予が風雅は夏炉冬扇のごとし」(芭蕉俳文)>、と奥宣憲は記している。
奥宣憲、幼少のころから中尾青濤に師事、書の世界にあったそうだ。しかし、大学は同志社大学経済学部。おそらく卒業後はサラリーマン生活に、と思っていたんじゃないか。ところが、同志社卒業の前年、師が急逝する。多くの塾生の間から、この後は師に代わり、奥宣憲が指導しろ、という声があがったそうだ。奥宣憲、書で立つことを決意する。
昭和55年(1980年)日展初入選。その後も入選を重ねる。が、その後、日展への出品をやめる。
5月下旬、銀座のギャラリーへ訪ね、従兄弟の連れ合いの書いたものを見せると、奥宣憲、とても喜んでくれた。
「日本のこころと美」の第10回記念展の折りに作った作品集を頂戴した。
その作品集に、奥宣憲、こういうことを書いている。
<「芸術は生きていないと、ダメだ!」といいます。生きた作品とは、わたくしにとってそれが日本最古の歌集『万葉集』の家持であったり、鴨長明の方丈記、世阿弥の風姿花伝、道元や兼好や龍馬、あるいは・・・・・。作者の魂が、作品が出来上がるときだけに限って、わたくしの身体に乗り移ったように自在に筆を操ってくれるのです>、と。
日展への出品をやめた後の奥宣憲、2001年以降、毎年、個展を開いている。
周りからも押され、個展で世に問う、と。

貞亨元年(1684年)の『野ざらし紀行』。

     野ざらしを心にかぜのしむ身哉
この墨跡、芭蕉の胸中が思われる筆づかい。

百骸九竅の中ニ物あり・・・・・。
貞亨4年(1687年)の『笈の小文』。

月日ハ百代の過客ニして行きかふ年も又旅人也・・・・・
元禄2年(1689年)、『奥の細道』、冒頭序文の書き出し。
名文中の名文である芭蕉のこの書き出し、奥宣憲の筆により、その趣き弥増す。

弥生も末の七日・・・・・。
元禄2年3月27日。『奥の細道』旅立ちだ。

     行春や鳥啼魚の目ハ泪
これを矢立の初として・・・・・

昨年は、一茶生誕250年であった。
一茶の作品もひとつ。
右から、
     おらが世やそこらのくさも餅になる
     夕立がよろこばしいか蝸牛
     むら雀麦わら笛に踊る也
     新しい水沸く音や井の底に

吉田兼好の言葉も引こう。
<折節のうつりかはるこそ ものごとにあハれな連> (徒然草第十九段)。

<一事ヲ必ズナサムト思ハヾ他の事ノ破ルヽモ痛ムベカラズ>(徒然草第百八十八段)。
この文言、奥宣憲、こう読み説いている。
<一度限りの人生、悔いのないよう有意義に過ごしたいものだ>、と。
まさにその通り。
奥宣憲、そのように生きてきたようである。幸せな人生だ。話していて、そう感じた。

日本のこころと美 2014 奥宣憲書作展、この秋、10月には大阪茨木市の川端康成文学館でも催される。関西にお住まいのお方には是非ご覧に、とお薦めする。
別に、縁戚であるからということではない。
奥宣憲の書、ゆったりと柔らかく、とても心安らぐ故である。