考現学(やり直し)。

先週末、5月末に亡くなった親父の一人(叔父)の四十九日、満中陰の法要が、大阪の寺であった。その日は大阪に泊まり、日曜、月曜の2日間京都にいた。
日常、関東の地で過ごす者にとっては、時に関西へ行くと、とても興味深い思いを抱く。寺社ばかりでなく、ごく普通の町中の姿も。
そのようなことを何回か載せたいが、その前に、私のミスで一瞬の間に消えてしまった「考現学」のやり直しを済ませておかなくてはならない。
先日書いたものとは同じものとはならないが、このようなことを記した。
5月下旬、大阪モノレールの万博記念公園で降りると、あれがいた。

これである。
万博関連の建造物、すべて取り壊されたが、これだけは残された。
よかった。たまにこれを見ると、なにかホッとする。

みんぱく(国立民族学博物館)、ここから入る。
特別展は、「今和次郎採集講義・・・考現学の今」。この日は、日本アフリカ学会の学術大会も開かれていたようだ。

今和次郎の考現学の特別展、民博の本館じゃなく、左手のこのトルコ帽のような建物で催されている。
みんぱく、常設展はカメラが許されているが、特別展の方は撮影不可。
特別展の場合は、外部から持ってくるものも多い。その意向にもよるもの、と思われる。今回展には、工学院大学図書館所蔵の資料が多くあった。
で、ここから後は、幾つかのチラシや月刊みんぱくから複写する。

”考現学”なる言葉、もちろん”考古学”という言葉から生み出された言葉。
その生みの親の今和次郎、こういう男。

”考現”なんてことを言いだした今和次郎、師の柳田國男からはよろしく思われていなかったそうだ。

会場図。
なにしろ採集講義だ。”最終”ではなく”採集”なんだ。今和次郎、若くして早稲田大学の教授となり、最終講義もおこなっているであろうが、採集講義は数多く行なっている。

「俗風記録」と題されたもの。
1925年初夏の”東京銀座街風俗記録”となっている。
男の洋装と和装の比率が、67%と33%であるのに対し、女は1%のみが洋装で他はすべて和装、とある。ホントかな、という思いもあるが、調べに調べた今和次郎のいうことだから、そうであるのだろう。
”カフェー・キリンの内観”だとか、”もんぺの分布図”だとか、”東京場末女人の結髪”だとか、それが何なんだ、ということをよく調べている。

今和次郎、多くのスケッチを描いている。
出身校は東京美術学校(今の芸大)だ。愛用の三角定規とサクラクレヨンも展示されていた。

1926年の「無産者児童冬の服装調」。これは、10歳の女子の下着と上着。こんなものを調べてどうするんだ、という思いもある。しかし、これが考現学なんだ。
考現学、その目線は下向きなんだ。
1930年、今和次郎、ヨーロッパへ旅する。
300数十枚のスケッチを残す。そのタイトルは、「欧州紳士淑女以外」。
”以外”なんだ。紳士淑女以外の人たちを描いている。例えばこういう人たち。食堂給仕、女給、エントツ掃除夫、巡査、ガラス拭き、・・・・・といった人たち。

考現学、後の時代には、赤瀬川原平や藤森照信などの路上観察学会にも引き継がれた。
”超日常観察”となっているこのチラシ、右の食品パックはそう古いものではなかろう。左は、電車の中の人々の生態観察であるが、ウォークマンを聞いている人がいる。だから、2〜30年前だろう。
今なら、半数近くとは言わないまでも、3割程度の人はケータイをやっている。

こういうこともあったんだ。

これまでにも何度も出てきたこのおじさん、この人が今和次郎だ。
よれよれのシャツに帽子を被り、タバコを銜えている。冬の時期にはジャンパー姿であったそうだ。天皇から招かれた園遊会にもその姿で、という人であったそうだ。

”考現学とみんぱく”、”今の一切調べ”、みんぱくはどうするのだ。

昔の調査と新しい調査、みんぱく、その試みを続けている。

「月刊みんぱく」4月号の表紙。
「今和次郎の考現学とその遺伝子たち」という」特集が組まれている。
今和次郎から梅棹忠夫へ、そして、その弟子たちへ、という。