岩手あちこち(7) 遠野(『遠野物語』続きの続き)。

『遠野物語』、昨日でお終いにするつもりでいたが、ひとつ忘れてしまった。
昨日、少し長くなったこともあるのだろう、『遠野物語拾遺』について触れるのを忘れてしまった。”拾遺”について抜け落ちているのもシャク。それ以上に、桟敷席の観客から観れば、面白い人間ドラマもある。で、あと1回続けることにする。
『遠野物語拾遺』が『遠野物語』の増補版として出たのは、昭和10年。『遠野物語』が世に出てから四半世紀が過ぎている。『遠野物語』は119話、『遠野物語拾遺』は299話、という違いはある。しかし、ずいぶん時間がかかっている。柳田國男の気分、やや面白からず、ということもあったからなのだ。
大和書房版『遠野物語』の解説を書いている谷川健一は、<「拾遺」は佐々木の提出した資料を柳田が書き改めたものが約半分、のこりは鈴木脩一が柳田の方針の下に策定整理したものである。『拾遺』がいくぶん未完成の観を呈し、文体も文語体から口語体へと変っているのは、そうしたやむを得ない事情をふまえてのことであった>、と記す。たしかに、文語体を用いた『遠野物語』の方がピタッとくる。
佐々木喜善(鏡石)もその2年前、昭和8年に死んでいる。佐々木喜善、『遠野物語拾遺』を見ることはなかった。
ところで、『遠野物語拾遺』の「後記」は、折口信夫が書いている。ところどころ拾う。
<「唯、鏡石子は、年僅に二十四五、自分も之に十歳長ずるのみ」とあった佐々木喜善さんも、早ことし三回忌の仏なってしまわれた。「遠野物語」後、二十年の間に、故人の書き溜めた採訪記は、ずゐぶんのかさに上った。先生はもう、再版の興味などは、持って居られなかった。・・・・・>、とある。
『拾遺』は、『遠野物語』の再版時、増補として発表されたものである。何と、柳田國男、再版することへの意志、萎えていたのだ。佐々木喜善からの資料は届いていたのだが。
しかし、時間はかかったが、『拾遺』は成った。折口信夫、こう書いている。
<・・・・・其民俗学の世界にも、先生一代の中に、花咲く春が来て、赤い頭巾を着て、扇ひろげて立って居られる先生の姿を見る時が、こヽに廻り合わせて来たのである。・・・・・故人鏡石子も、今日ごろはひそかに還って、私どもの歓喜に、声合せてゐるのでないかと思ふ。  昭和十年盆の月夜   折口信夫 三礼>、と。
『遠野物語拾遺』を加えた『遠野物語』の再版が成った昭和十年、柳田國男は60歳、還暦を迎えたんだ。それは目出度い。が、それと共に折口信夫、佐々木喜善にずいぶん気を使っている。佐々木喜善なくしては、『遠野物語』も『拾遺』もあり得ないのだから、当然と言えば当然だが。しかし、どうも、それのみではない匂いがする。
柳田國男は、案外はっきりと書いている。「初版序文」に続く「再版覚書」には、こうある。
<・・・・・(佐々木君が)或時持って来て、どさりと私の机の上に置いた。これを読んで見ると中々面白いが、何分にも数量が多く、・・・・・自分の原稿がまだ半分ほどしか進まぬ内に、待ち兼ねて佐々木君が聴耳草紙を出してしまった。・・・・・聴耳の方で先に発表せられてしまった。さうで無くても後れがちであった仕事が、是で愈々拍子抜けをして、終に佐々木君の生前に、もう一度悦ばせることが出来なかったのは遺憾である。・・・・・>、と。なるほど。
佐々木喜善からの原稿は来ていたのだが、あまりにも多量。重複しているものもある。これらを選り分け、字句を正したり削ったりし、自分の手でもう一度書き直す。時間が取られる。そうこうする内に、佐々木喜善が『聴耳草紙』を出してしまった。『遠野物語拾遺』の中に取り入れようと思っていた話も、幾つも入っている。
面白くない。腹も立つ。我々凡人ならば、そうである。だが、日本民俗学の祖・大学者の柳田國男の場合は、・・・やはり、面白くないんだ。面白いね。こういうところは、凡人も大学者も変わらない。
で、柳田國男、気が抜けてしまい、進行停止状態になった模様。先述した折口信夫の言葉、「先生はもう、再版の興味などは、持って居られなかった」、という言葉にあるように。
しかし、『拾遺』は成った。佐々木喜善の著『聴耳草紙』が出た4年後、佐々木喜善が死んで2年後に。どうも、周りの人たちが柳田の尻を叩いたようだ。それでも、谷川健一が記すように、半分は鈴木脩一の手を借りている。
そうは言っても、柳田國男と佐々木喜善、昭和8年、佐々木が48歳で死ぬまで、先生と弟子としていい関係を保っていた、という。

泉鏡花に心酔し、自ら鏡石と号し、遠野物語研究所で求めた『やさしい「遠野物語」入門』によれば、早稲田に来てからは、前田夕暮、三木露風、秋田雨雀、石川啄木、北原白秋などと交流があった文学青年の佐々木喜善、柳田國男に素材を提供するばかりじゃなく、自らも創作して当然。そのこと、柳田もよく解かっていたことであろう。
なお、この『やさしい「遠野物語」入門』、著者は、遠野物語研究所長の高柳敏郎。本文30ページ+関連地図というリーフレットのようなものだが、とてもよくできている。序文に、監修の石井正巳がこう書いている。
<この本は、遠野で最も『遠野物語』をよく知る方の書いた入門書です。・・・・・『遠野物語』の本質に迫る一冊になっています>、と。まさに、その通り。やさしく、解かりやすい。