自然に死ぬ権利。

今日、3.11、東日本大震災から3か月。
今日現在、死亡者15405人、行方不明者8095人。さらに、避難所暮らしの人、9万人以上。天災に人災が重なり、永田町では、責任のなすりあい、足の引っひっぱりあいが続く。
国家というもの、国民の生命、財産を守る、というのが、大きな責務であろう。まだまだ長期に渉るであろう、厳しい状況にある避難所暮らしの人たち、また、全被災者の生活を守るには、足のひっぱりあいをしている時間はない。永田町の人たち、如何にモノ解かりの悪い連中が多いとはいえ。
23500余の亡くなった人たち、無念の死であったであろう。如何に未曾有の大災害だとはいえ、平らかで自然な死ではないのだから。これも、国家の責任だ。何故なら、自然に死ぬ権利を保証するのも、国家の責務、と考える故に。日本国憲法に、そのようなことが書いてあるのかどうかは知らないが、今日、そう思った。
実は、昨日、久しぶりでTから電話があった。T、いきなり、こう言う。
「あのさ、暫く前、三島の映画のブログに、三島が、死ぬにもチャンスがあるとかって書いてたじゃない」、と。「そうだ。林房雄との対談の中で、三島、そう言ってるんだ。それがどうかしたか?」。「いや、何か、死ぬんで、トデイ何とかかんとか、というの知らないかなって思って」、と言う。「死ぬので、トデイ何とかかんとか? ああ、それ、ナンシー・ウッドだ。トデイ イズ ア ヴェリー グッドデイ トゥ ダイってヤツだ」、と応える。
「でも、何で、いきなり、今日は死ぬのになんだ?」、と聞き返す。「いや、この間から、そのトデイ何とかに引っかかって。どこで、誰に聞いたのかも思い出さないんだが」、とT。「知ってるなら、チョッとこっちへ来て教えてくれない? 35度近くあって暑いんだけど」、と言う。チェンマイからの電話だった。チョッと来ないか、と言われてもなー、チョッと新宿へ行くようなワケにはいかない。
デカい家に住み、朝飯は食わないが、昼と夜は、ワインのボトルを持ち、あちこちのレストランですべて外食。年の1/3以上、そんな優雅な生活を送っているのに、ひょっとしてT、死にたくなったのかな、と思った。
今日、ナンシー・ウッドがらみの資料、デジカメで撮り、メールした。細かい字は、読めないだろうが。暫くして電話がきた。
「ありがとう。ああいう詩だったんだ」、と言う。「ところで、どうしてあの詩、どうしてなんだ? どうかしたか?」、とTに聞いた。「いや、この間から、何か気にかかってしょうがなかったんだ。解かってよかった。帰ったら、また会いたい」、と言う。T、死にたくなったワケではなさそうだ。
「それよりな、今日は、大震災から丁度3カ月目の日なんだ。まだ、8000人ぐらいの人が見つかってないんだ」。「解かってる。気の毒だよ。ひどいよ。こっちでもみんな集まると震災の話は出る。今でも、みんな募金をしているよ」、とT。私も、来週あたり郵便局へ行って、毎月のささやかな務め、果たしてこよう。
ところで、一昨日、カタルーニャ国際賞を授与された村上春樹、バルセロナで、こういう挨拶というか演説をした。
1945年、原爆を落とされた日本は、被害者であった。しかし、今年の日本は、自国民に対する加害者になった。”効率”を追い求めたからだ。間違えた方向に進んだ。原発は、廃止しなくてはいけない。荒っぽく言えば、このような趣旨。
その中で、村上春樹、こういうことも語っている。
日本人は、無常という移ろいゆく儚い世界に生きている。それが、日本文化の基本イデア(観念)となっている、と。
たしかに、そうだ。無常ということ、諦観につながり、悟りを求める。日本人の死生観、その根底には、無常感が脈々と流れている。死は、受け入れる。しかし、生と死、という感覚じゃないかな。無常という儚い思いに支えられた。
実は、今日、Tへ送るため引き出したナンシー・ウッドの詩を改めて読み返した時、ンンッ、と思った。死を受け入れる感じ、少し違うのだ。Tには、10数枚の資料をメールしたが、その1枚だけここに載せよう。Tが、トデイ何とかかんとか、と言ってきたナンシー・ウッドの詩。

ナンシー・ウッド、アメリカの女流詩人。合衆国南西部のタオス・プエブロのネイティヴ・アメリカン(今は、また、インディアンと呼んでくれ、と彼ら自身が言っているようだが)と共に長く暮らした人だ。これは、彼女の最もよく知られた作品。元の題は、「Today is a very good day to die」。
なお、この一篇、金関寿夫訳のほうが一般的だが、これは、丸元淑生の訳。とても自然な訳で、私は、好き。
それはともかく、同じ死を受け入れるにしても、日本人の受け入れ方と違う。無常感、諦観が根底にある日本人の死生観とは、どこか違う。
タオス・プエブロのインディアンの人たち、生の延長として、死を受け入れている。ごく自然なんだ。無常感ではない。諦観なんてものでもない。私たち日本人、こうはいかない。どう考えても、ここには、無常ということなど、ない。自然な死だ。
どちらが、どうこう、というものではない。しかし、自然に死ぬ。どこか、いいな。
で、”自然に死ぬ権利”、というものも、国民は持っているのじゃないか、と考えた。国民が、”自然に死ぬ権利”、それも、国家の責務だろう、と。
国民の死に関し、憲法に記載があるのかどうかは知らない。いや、ない。しかし、多くの人たちが、自然な死でなく、無念の死を遂げた大震災、3.11から3か月目の今日、そのようなことを考える。