ファンキー・ジャンプ。

小沢昭一のことを考えていたら、まったく逆の石原慎太郎のことを思い出した。
このふたり、似たところなど、どこにもない。年が近いだけ。慎太郎の方が、3つ下。今年、78歳。だが、どうだ。小沢が、
     もう余録どうでもいいぜ法師蝉     変哲
なんてこと(変哲は、小沢昭一の俳号です)と言っているのに、慎太郎の方は、皆さまご存じのとおり。現職の都知事であるばかりか、何かというと顔を出す。何か問題があるたびに、”で、この人は”、という言葉の後に、慎太郎がコメントしている。ヘタをすれば、あと一期、都知事をやるかもしれない。芥川賞の選考委員も辞めないし。
私など、もうそろそろ引っこんだらどうだ、と思っているのだが。元気だとはいえ、老人顔にもなったし。しかし、ご本人、そんな気は、さらさらないようだ。困ったものだ。
若い頃の石原慎太郎、素晴らしい作家であった。『太陽の季節』で芥川賞をとったのが、1955年。その時、慎太郎、23歳。鮮烈なデビューだった。その後、たて続けに魅力溢れる作品を書く。この慎太郎の初期の作品、私は、大好きだった。その頃の作品のひとつに、『ファンキー・ジャンプ』がある。
1959年に発表されている。ちょうどモダンジャズが、どっと日本に入ってきたころだ。当時のジャズプレイヤーの名が、これでもかと出てくる。
久しぶりに引っぱり出した。筑摩書房の新鋭文学叢書の第8巻が『石原慎太郎集』。奥付けを見ると、発行は昭和35年となっている。50年前のものだが、50年ぶりに読んだというわけではない。慎太郎の初期の作品は好きなので、その後も何度かは読んでいる。でも、おそらく、この前読んでからは、30年ぐらい経つだろう。
久しぶりに手に取り、驚いた。四六版で、ハードカバー、ケース入り。それで、定価280円。何より、原弘による装丁、単純な色づかいで、とても美しい。天、地、小口にも色が着いている。深く鈍い藍色が。
口絵には、慎太郎の顔写真。慎太郎カットの。裕次郎より、はるかに二枚目だ。
それはともかく、この時期の慎太郎の作品、とてもリリカル。特に、私のお気に入りは、『ヨットと少年』、『乾いた花』。
『乾いた花』は、その後、篠田正浩の手で映画化されたが、これもよかった。当時、篠田正浩の恋人だと言われていた、加賀まり子がヒロインを演じた。冴子という名の、鉄火場に出入りする美少女を。この時の加賀まり子、震えるほど美しかった。美は一瞬なんだ、やはり。
あちこち寄り道をしていると、なかなか『ファンキー・ジャンプ』まで辿りつかない。そろそろいこう。
これは、実験小説だ。不思議な小説なんだ。散文詩、といってもいい。改めて読み、そう思った。
主人公だろうと思われる松木敏夫という名の男は、ジャズピアニスト。マキーと呼ばれている。どうも、ニューヨークで、デイヴィス(慎太郎は、デヴィスと記しているが)、ブレーキー(これも、最後のボウ引きはないが)、ハンク、ディズィ、とジャムセッションを演ったことがあるようだ。大物ばかりだ。
<ディジィは、マキー(松木)の「ファンキー」は未だ何処の国のどのプレイヤーにも感じられなかったある薄気味悪さがあると言っていた>、という男。
この男、ヘロイン中毒でもある。薬を断とうと酒を飲みだすが、胃を滅茶苦茶にし、挙句にまた薬に戻っている。恋人(いや、恋人かどうかも、何とも言えない)を殺す。薬に狂って。
この小説のエンディングは、こうだ。
<「もう遅い。なにもかも、見ろ彼は狂っている。弾きながら完全に狂っている! しかし彼は完成したよ、・・・・・こりゃあ本物だ、本物のビ・バップだよ!」・・・・・舞台では一匹の甲虫が未だ海を弾きつづけきりなくその上を飛び廻っていた>。
この頃の石原慎太郎、やや現実社会と離れたシーンを、その作品の中に扱っていた。麻薬であり、鉄火場であり、といったようなものを。この『ファンキー・ジャンプ』もそうである。その小説の粗筋を追えばそうだ。しかし、この小説、その構成、作りが、とても不思議、ユニークなんだ。
アルファベットが多用されている。それはいい。ジャズのタイトルと思われるものが、大きな級数(当時は、号数だな)で記される。それもいい。何が不思議かって、句読点のある文章と、句読点のまったくない文章が入り混じっている。
句読点を用いない小説というものはある。だが、この『ファンキー・ジャンプ』では、入り混じるばかりでなく、句読点のない部分は、長編の詩、と思われる構成となっている。どこでもいいが、そんな句読点のない個所をひとつだけ挙げておこう。
<・・・・・・・・・・・
 舞踏のさんざめき 逃げていく二人
 渚の香 新しい足跡
 女は手から花を砂に落す
 夜の 海の墓地に新しい墓標があった
 置かれたままの柩がある
 ・・・・・・・・・・・>。
句読点のある散文と、句読点のない長編詩とも思われる、韻文とも言える個所、半々に表われる。アルファベットの多用も含め、おそらく慎太郎、小説という表現形態の中で、インプロビゼーションをやったんだ。アドリブ、即興演奏を。どうも、そう思える、私には。
それが、成功しているようにも思える。50年前には、そんなこと、考えてはいなかったが。
その後の石原慎太郎の小説、ほとんど読んでいない。裕次郎とのことを描いた『弟』は読んだが、どういうものだったか、忘れた。
しかし、初期の慎太郎の小説は、心に残っている。リリシズムに溢れていた。好きだった。だから、今の醜悪な言動は、あまり見たくない。
そう言えば、この筑摩書房の新鋭文学叢書、解説陣には大物を揃えている。花田清輝、山本健吉といった。石原慎太郎の解説は、三島由紀夫が務めている。三島、長い解説文を書いている。その冒頭部のみ、引いておこう。
<石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた。日本ではこれは来るべくして、一度も来なかった時代である>、というところだけを。