原理主義。

9月11日にコーランを焼くのどうの、と言っていたフロリダの福音派の牧師、二転三転したあげく、結局止めた。
今までにも、さまざま問題のあった人のようだが、福音派も含め、アメリカにはこのようなキリスト教原理主義者が、案外多いようだ。
同志社大学一神教学際研究センターの研究報告『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか 一神教世界の現在』には、こういう数値が出ている。
<2005年5月、2006年5月、2007年5月に行われたギャロップ調査によれば、「聖書は神の実際の言葉であり、字義通り理解されなければならないとする」とする人は平均で31%、・・・・・いわゆる聖書の直解主義者と呼ぶことができる人々が、アメリカには3人に1人いることになる>、ということが。
「聖書は神の霊感を受けた言葉であるが、その中のすべては字義通り理解されるべきでない」とか、「聖書は人によって記録された古代の物語、伝説、歴史である」、と考えている人も2/3はいるのだが。そうは言っても、1/3の人は、2000年前に記された聖書の無謬性を信じている。原理主義者であろう。
また、同書には、こういう記述もある。
<イスラームの自己理解においては、イスラームとはアーダム以来のすべての人類の宗教であるばかりでなく、宇宙の森羅万象の存在様態でもある。このイスラームの自己理解に即するなら、そもそも「イスラームにおいて共存を妨げるものがあるか」との問い自体が意味を成さない>、との。
さらに、<肯定であれ否定であれ、いかなる答えであれ、このような質問に対しそもそも回答があったとしたら、それはイスラームの外部の視点に立つものでしかあり得ない>、ということも。
これじゃ、原理主義になる。私の頭じゃ。
キリスト教にしろイスラム教にしろ、そもそもはユダヤ教から派生した宗教。ただ、ユダヤ教同様、一神教であるというところに、問題がある。根源の神は、同じくヤハウェ。イエスは、神と一体化した神の子であり、アッラーは、単にアラビア語で”神”という意味の一般名詞だそうだ。(浅野典夫著『ものがたり宗教史』、2009年、筑摩書房刊)
ジハードを宣し、多くのイスラム戦士、原理主義者が、”アッラーアクバル”と叫んでいたそのアッラーが、一般名詞だということ、初めて知った。要するに、近親憎悪といえる。原理主義者同士の。原理主義こそ、悪の根源ではなかろうか。頭の固い連中の。
だから、こうなる。
9.11の後、2001年10月7日、アフガン攻撃を開始したブッシュは、「我々の味方になるか、さもなければ、敵になるか」、という世界を二極化する演説をした。このブッシュの発言に対し、同日、ウサーマ・ビン・ラーディンは、「一連の出来事は、世界を二つの陣営に分裂させた。信仰篤き者の陣営と異端者の陣営だ。神が我々とあなた方を彼から隔ててくださいますように」、という声明を出す。(同志社大学一神教学際研究センターの前掲書)
9.11以前の状況を考えても、どっちもどっちだ。
しかし、同書には、こういう記述もある。
<宗教の共存を考えるなら、共存とは、信徒および、宗教的象徴の共存を意味することになるが、イスラームは歴史的には1400年にわたって、「啓典の民」と呼ばれる中東のキリスト教、ユダヤ教、およびゾロアスター教のみならず、ヒンズー教、仏教、儒教、道教、そして各地の民間信仰、そして近現代においては、共産主義などの無神論的諸イデオロギーの信奉者、およびそれらの象徴とも共存してきたのが事実である>、との。
キリスト教にも、「汝の隣人を愛せよ」、という言葉がある。この隣人には、クリスチャン以外の人たち、また、特定の信仰を持たない人たちも含まれているだろう。
同じじゃないか。それが、どうしてこうなる。
ガチガチの原理主義の成せる業だろう。融通の利かない原理主義者の。どのようなことでも、融通の利かないヤツは、困りものだが、宗教原理主義は、困るというだけでは済まない。
どうなるのか。私には、融通の利かない原理主義は困る、ということ以外、よく解からない。