暑い8月、始まる。

8時からだな見なきゃ、と思いながら、ついウッカリし、気がついたら15分ほど過ぎていた。昨日夜のNHKの番組「日本のいちばん長い夏」。
半藤一利の原作の劇化。プロの役者ばかりでなく、林望、鳥越俊太郎、島田雅彦、田原総一朗などが演じる、と何日も前からNHKは予告を流していた。皆さん熱演であった。やや過剰な演技ではあったが。それよりも、
昭和38年6月、終戦から18年後、文春の編集者時代の半藤一利が司会し、昭和20年の夏を体験した人、28人の大座談会が持たれた。
終戦時の内閣書記官長・迫水久常、終戦時の首相・鈴木貫太郎の息子、駐ソ大使・佐藤尚武、第八方面軍司令官の陸軍大将・今村均、治安維持法によって検挙され永年獄中にあった共産党の志賀義雄、外務次官として外相の東郷茂徳を補佐していた松本俊一、さらに、兵士としてあちこちの戦場にいた、大岡昇平、会田雄次、上山春平、有馬頼義、村上兵衛などの、後に作家や学者となる人たち、はからずも生残った、沖縄の白梅学徒隊の女子学生、このような人たち28人が、昭和20年の夏を語る。
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が出されたのは、7月26日。日本は黙殺した。もし、早期に受諾していたら、広島と長崎への原爆投下は防げたか。半藤一利は、日本への原爆投下をアメリカ大統領・トルーマンが命じたのは、その前7月24日だった、と言っている。だからどう、とは言っていないが。
海軍の特攻魚雷・回天で2度出撃しながら、2度とも事故で果たせなかった上山春平は、あの時命を賭ける覚悟は、だれでもできていた。問題は、死に方だった、と。敗戦まで18年間の獄中生活を送った志賀義雄は、監獄の中から日本を見ていると、案外真実だけが伝わった、と。また、アメリカとの仲介をソ連に、との日本のはかない望みの前線にいた、駐ソ大使の佐藤尚武は、ソ連が聞くわけがない、スターリンは日本が参るのを待っていた、とそれぞれの人言っている。
中でも、敗戦後戦犯として10年間(当初の判決は死刑だったそうだが)獄中にいた今村均の話は象徴的だ。当時ラバウルにいたが、中央のことなど何も解からなかった、と言っている。陸軍大将である今村均が。
そうなんだ。日本の中枢、どうにもならない戦局となり、いよいよダメだとなっても、意志統一できず、決断できなかった。
文春新書編集部編の『昭和天皇の履歴書』(2008年刊)は、明治34年の昭和天皇の誕生から、昭和20年、昭和天皇44歳の時までの、各年のことごとを記したものだが、昭和20年の主要事項、こうである。
3月10日、東京大空襲。 4月1日、米軍、沖縄本島へ上陸。 4月7日、鈴木貫太郎内閣成立。 5月7日、盟邦ドイツが降伏。 6月8日、御前会議で本土決戦方針を決定。 6月23日、沖縄守備隊全滅。 7月26日、対日ポツダム宣言。 8月6日、広島に原爆投下。 8月9日、ソ連、満洲侵攻開始。 同日、長崎に原爆投下。
その間、6月22日に天皇は、最高戦争指導会議のメンバーを集めている。首相、陸海両総長、同両大臣、外相、の6人。どうもこの日に、天皇は、6月8日の御前会議の”徹底抗戦”の決定を翻したようだ。7月7日には、ソ連の仲介による和平工作を迅速に進める為、特使の派遣を、と首相の鈴木貫太郎に急かしている。ソ連に申し入れるも、18日にこれを拒否される。
8月9日夜から10日未明にかけ、ポツダム宣言受諾をめぐる最終的な御前会議が開かれる。国体護持のみを条件に受諾すべき、との外相・東郷茂徳案と、さらなる4条件が認められないならば徹底抗戦すべし、との陸相・阿南惟幾案が対立、首相の鈴木貫太郎は、最終判断を天皇に求めた。昭和天皇、軍部を批判、外相案に賛成である、と述べたという。
8月10日、国体護持を条件にしたポツダム宣言受諾を、連合国に通告。だが、あくまでも無条件、との回答が届く。8月14日、異例の御前会議が開かれ、聖断下る。かくて、ポツダム宣言受諾が決定された、とこの書にはある。
8月15日正午の玉音放送、昭和天皇は、枢密院顧問会議を一時中断し、政務室でたったひとりで聞かれたそうだ。
暑い8月、昭和の8月が始まった。