あちら側。

曇り。
何日か、ブログお休みにしたが、再開しよう。
この地球上では、おそらく、毎年1億人ぐらいの人が死んでいるのではなかろうか。世界人口65億ぐらいいるのだろうが、平均すると。日本人は長生きだが、そうでない国も多いから。そのような中では、ごく一部とも言えない比率であるが、ここ暫くの間に、私でも名を知る人が、何人か死んだ。
1週間すこし前、円楽が亡くなり、あちら側へ行った。76歳。三遊亭一門の総帥。何年か前、脳梗塞で倒れたが克服、2007年2月、人情噺「芝浜」で国立名人会の高座に上がったが、話し終えた後、「もうちょっとはっきりしゃべれると思ったが、駄目ですね。こんな調子でまた恥はかきたくない」、と言ってスパッと引退をした。
誰しもが、こうありたい、と思う潔い身の引き方。昔、”笑点”は、何度か見たことがあるが、その高座は見たことがない。
数日前、レヴィ=ストロースが、あちら側へ行った。100歳。知の巨人、また、その高名な著作の名は知るが、読んではいない。まあ、たとえ手に取ったところで、私には、手に負えないであろうが。
この二人に較べると、はるかに小さな扱いであったが、1週間前の同じ日に、二人のアジア人が、やはり、あちら側へ行った。私にとっては、こちらの二人の方が、ああ、そうか、という思いがある。もちろん、直接には何の関わりもないが。
一人は、李厚絡。元KCIA(韓国中央情報部)部長。朴正煕政権時代の1973年、朴正煕の政敵・金大中を九段のグランドパレスから拉致した事件の首謀者、と言われる男。金大中は、アメリカのCIAの圧力で、殺されることは免れ、5日後ソウルで解放されるが。さらに、その後、大統領になり、ノーベル賞まで与えられるが。
それはともかく、この事件、さまざまな紆余曲折はあったが、2006年、韓国政府は、この拉致事件、KCIAの組織的犯行であったことを認めた。その時のトップが、李厚絡。李は、この前後、ピョンヤンにも行き、南北共同声明を結び、朴正煕の後を襲う男、とも言われていたが失脚、表舞台からは姿を消した。しかし、その後も、金大中事件については、一言もしゃべらず、その真相を墓の中まで持って行った。
金大中を何度も殺そうとした朴正煕は、1979年に警護室長に殺され、金大中も今年死んだ。だが、今は近代国家、先進国となっている韓国も、30数年前は、明治維新前後のような混迷の時代であったな、と考える。
あと一人は、銭学森。中国のロケット、ミサイルの父、と呼ばれる男。いわば、ドイツのフォン・ブラウン、アメリカのゴダード、ロシアのツィオルコフスキーやコロリョフ、日本でいえば糸川英夫のような男である。
若くして、アメリカのMITやカリフォルニア工科大で学んだ俊才、マッカーシズムの中、アメリカで5年間軟禁されていたそうだが、1955年、中国へ帰り、ロケット、ミサイル、人工衛星の研究開発に携わる。さらに、銭は、原爆の運搬実験にも関わっている。中国の軍備の拡大にも大きく関わっている。
アメリカの原爆の父・オッペンハイマーは、後年それを悔いている。ソ連の原爆の父・サハロフもまた、後年それを悔いている。そして、この両者とも、国家から断罪されている。では、銭学森はどうであったか。銭学森は、晩年、気功に凝っていたそうである。中国古来の気功に。だが、去年、胡錦涛が、国家の英雄・銭学森の自宅を訪れ、その労をねぎらっているという。銭学森の心中、複雑なものがあったろう。
ここ暫くの間に、あちら側へ行った何人かの人について記した。
話はガラッと変わるが、一部に熱狂的な読者を持つ洲之内徹が、1987年にあちら側へ行った時、白洲正子が「芸術新潮」に書いた追悼文の最後の4行を写しておく。
     ここらあたりは
     草山ばかり
     風に吹かれて
     飲むばかり
「洲之内が好きだった詩だった」、そうだ。
誰の、何という詩なのか、私は知らないが、何となく。