7月26日から8月15日まで、20日間。

晴れ。
いつもこの日は、ぬけるような晴れ。12時、NHK「全国戦没者追悼式」中継観る。黙祷。
1945年8月14日、最後の御前会議にてポツダム宣言受諾、無条件降伏受け入れ決定。15日、大東亜戦争終わる。
それ以前、7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムのツェツィリエンホーフ宮殿でトルーマン、チャーチル(途中アトリーに変わるが)、スターリンが会談。会談に臨むトルーマンのもとには、前日の7月16日、アラモゴードでの初の原爆実験成功の報告が届いていた、という。
暫く前に行ったツェツィリエンホーフは、宮殿というより少し大きな瀟洒な邸宅といった感じの建物で、3巨頭が、それぞれが有利な戦後秩序の構築のために火花を散らしたであろう会談の間も、思ったほど広くない典雅な印象であった。極端に生臭い話なんてのは、案外それとは対極の優雅な場でなされるのであろう。
7月26日、ポツダム宣言発せられる。
7月28日、日本はポツダム宣言の黙殺を発表。「国体護持」の一点、以後8月14日まで決断つかず。日のみ経ち、惨禍弥増す。何故か。
41年12月8日の真珠湾攻撃、ほぼ同時に展開された南方への電撃侵攻、これら緒戦の成功からわずか半年後の42年6月にはミッドウェー海戦の大敗北、8月ガダルカナルでの敗北、43年5月、アッツ島玉砕、44年7月、サイパン陥落、45年2月、硫黄島玉砕、45年3月から6月末にかけての沖縄での地獄の戦闘、45年3月10日の東京大空襲に始まる大阪、名古屋、北九州等の大都市への無差別爆撃、さらには、45年4月7日の戦艦大和の撃沈という象徴的出来事も含め、敗北につぐ敗北を重ねた。だが、何故。
日本政府、とりわけ大本営は、日本の敗北は避けられないことが解っていたであろう。残念至極のことではあっても。
しかし、7月26日から8月14日までの約20日間、決断を下せなかった。もし、もっと早く決断がなされれば、と思う。後になって言えることだ、ということも重々解った上でのことだが。
もし、7月末にポツダム宣言(ポツダム宣言自体は、米英中(蒋介石の中華民国)で調印。ソ連は、日ソ中立条約の建前上加わらず)受諾の決断をしていれば、8月6日の広島への原爆投下も、9日の長崎への投下も、8日のソ連による日ソ中立条約を踏みにじる満洲への侵攻も、(14日の夜にさえ、B29による多くの地方都市への絨毯爆撃が行われている)防げたであろう。
これら8月に入ってからだけでも、大東亜戦争、太平洋戦争による戦没者310万人の何分の1かの人命は失われずにすんだ、と思わざるを得ない。