主従二人(大石田)。

晴れ。
山寺で、「閑さや・・・」の名句を残した芭蕉と曾良の二人、その夜は山寺・立石寺の宿坊に泊まり、よく日、つまり、昨日(新暦7月14日)大石田の船宿・一栄宅へ入る。
一栄は、本名・高野平右衛門、尾花沢の清風の俳友であり、商売上の付き合いもあったというから、船宿というよりも回船業、運送業を営んでいたのだろう。ここに、昨日、今日そして明日(新暦7月14〜16日)の3日間泊まる。
大石田で芭蕉は、「古くから俳諧が盛んであり、辺鄙な田舎ながらそれなりに皆楽しんでいる」 というようなことを書いているが、それに続けて、「いい指導者がいないので、是非に、と頼まれ、仕方なく一巻を残した」 と記している。気乗りはしなかったんだ。まあそれでも、歌仙を巻いたんだ。さらにその後、「今回の風流は、こういう成果も生んだんだ」 とも書いているのだが。
歌仙は長句と短句を交互につくり、36句で一巻。この時は、芭蕉、曾良、一栄、それに、川水という土地の俳人の4人で巻いた。四吟歌仙だ。
曾良の『俳諧書留』には、「大石田、高野平右衛門亭にて」 として36句出ているが、全てを打つのは大変だから、初めの4句のみ打ってみよう。
     五月雨を集て涼し最上川         翁
     岸にほたる(を)つなぐ舟杭      一栄
     瓜畠いざよふ空に影待て        ソラ
     里をむかひに桑の細道         川水
まあこのように、「五月雨を・・・」の芭蕉の句(よく知られているものとは、2文字違う。当初は、「早し」ではなく、「涼し」だったんだ)を発句として、36句が巻かれているのだが、その状況がおもしろい。
この日(今日)の曾良の『旅日記』には、<夜ニ入小雨ス。発、一巡終テ、翁両人誘テ黒滝ヘ被参詣。予所労故、止。>とある。
夜になって小雨が降ってきたようだが、そのころから句づくりを始めたんだ。四吟歌仙を。ところが、ひと巡りしたら、芭蕉は一栄と川水の二人を誘って黒滝山向川寺というお寺へお参りに行ってしまうんだな。曾良は用があったので行かなかったようだが。
さらに、翌日、つまり明日、新暦でいえば7月16日の『旅日記』に曾良はこう書いている。<朝曇、辰刻晴。歌仙終。>と。
辰の刻は午前8時。つまり、このころやっと、この時の歌仙は終わったんだ。おもしろいな。しかし、当然だな。歌仙を巻いている途中に芭蕉は地元の二人を連れてお寺に行ったり、おそらく酒も飲んだり、その他さまざまなことをしていたんだな、きっと。ひと晩がかりで、ひと巻したんだ。おもしろい。
しかし、このようなことは、よくあることなのかな、不思議ではある。この世界、不案内な私には、頼まれて仕方なく歌仙を巻くことになったが、もともと気乗りがしなかった芭蕉は、あれこれ息抜きをしていたんじゃないのかな、とも思える。真相は解らないが。
この点、私の副読本の山本健吉は、「このときの歌仙は、翌日になって完結している」 とあっさりと書いているだけだし、私の参考書の嵐山光三郎は、何もふれていない。
俳諧の道に詳しいお二人が、このことに関しさほどの言及をしていないということは、この世界では、それほど不思議なことではないのかもしれないな。