タニマチ。

薄日、晴れ。
ここしばらく、内外なんやかやあって、しばらく芭蕉と曾良の旅のおっかけからは離れていたが、お二人のことを忘れていたわけではない。
それに彼らは、7月3日(旧暦5月17日)に尾花沢に着いて以来、今朝までずっと尾花沢の清風邸にいたんだ。10日の間も。よっぽど居心地が良かったんだと思う。
この清風という男、私の教科書・『おくのほそ道』の注釈によれば、本名は鈴木道祐、島田屋という紅花問屋を営んでいたばかりでなく、金融業も営んでいたという豪商である。
短いものなので芭蕉の書いたものをそのまま写すと、<かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。>とある。
金持ちなんだが、ガツガツしてなく徳のある男である。江戸にも時々行っているので旅人の気持ちもよく知っており、何日も引きとどめて長旅の労をいたわり、さまざま歓待してくれた、と芭蕉は言っている。だから、芭蕉と曾良の二人は10日もの間尾花沢にいたんだな。きっと、宗匠、宗匠と呼ばれて、世話役もつき、気分良かったんだ。完全なタニマチだ。清風は。
少し横道にずれるが、江戸にもちょくちょく来ていたというこの清風、私の副読本である山本健吉本によれば、「かれは江戸吉原、三浦屋のおいらん高尾とうわさのあったぐらいの人」とある。
ついでに、さらにもう一本横道にそれ、当時の吉原の最高位の花魁・三浦屋の高尾太夫について調べてみると、6代から11代まで諸説あるらしいが、その内の4人は大名や貴顕に落籍されているという。すごい名跡の花魁だ。清風とうわさのあったという高尾太夫は何代目の高尾太夫かは解らないが、ヒョットしたら清風は、花のお江戸の吉原で、吉原一の花魁を、15万石の大名と張りあっていたのかもしれないな。すごい男だ。
金もあり、学識もあり、人徳もあり、その上、遊びでも人後に落ちない、これこそタニマチ、これこそ立派なパトロンだな。
タニマチの語源は、相撲取の面倒をみた江戸期の大阪・谷町の医者に由来する、という。まあ、金銭関係を伴う後援者だ。相撲の世界に限らず、さまざまな世界にタニマチはいる。
30年ぐらい前になろうか、夜も大分晩い時間だったが、新宿のクラブで、4〜5人の相撲取りをひきつれ何人もの女を侍らせ飲んでいる男を見たことがある。おそらく、どこかの座敷で飲んでいて、仕上げに馴染みのクラブに来たのだろう。相撲取りの内の一人は、顔も名もよく知られている、たしか春日野部屋の幕内力士であった。
タニマチか、と思い、土俵上と違い、日常の中で見る相撲取りはやはりデカイな、と思い、そして、正直に記すと、こんな尋常ならぬ大男を何人も引き連れて飲むのは、気持ちいいだろうな、と思った。
相撲取りのタニマチならば、金があればなれるだろう。しかし、芭蕉のような当代きっての大宗匠である人物のタニマチとなるには、ただの金持ちでは、資格がない。それに加えて、学識、雅量、を併せ持った桁外れに大きな器量の持ち主である必要があろう。
このような男に10日もの間、下へもおかぬもてなしを受け、芭蕉と曾良の二人はそれまでの旅の疲れもとれたばかりでなく、さぞや気持ちが良かったろう。
『おくのほそ道』には、尾花沢で詠んだ芭蕉の句が3首、曾良の句がひとつ記されている。
     涼しさを我宿にしてねまる也
     這出よかひやが下のひきの声
     まゆはきを俤にして紅粉の花
     蚕飼する人は古代のすがた哉   曾良
初めの句で芭蕉は、「涼しいお座敷でのんびりとさせていただき、まるで、自分の家にいるようにくつろいでおります」と謝意をこめた挨拶を清風に贈っている。
しかし、いかに居心地がいいとはいっても、いつまでも清風の世話になって尾花沢にとどまるわけにはいかない。芭蕉と曾良、主従二人の旅は、この先まだまだ長いのだから。
そこで、この日の朝、長く滞在した尾花沢を清風に見送られて発ち、山寺・立石寺に向かう。立石寺へは元は予定に入れていなかったようだが、「いい所だから、行かれては」との地元の人の勧めで行くことにしたらしい。出羽方面へ向かうには、少し寄り道になるのだが。なお、320年前の今日も「天気能」(曾良『旅日記』)で、晴れていたらしい。
行って良かった。芭蕉にとってばかりでなく、後世の我々にとっても。
そこで、あの・・・
     閑さや岩にしみ入蝉の声
という、名句が生まれるのだから。もっとも、芭蕉の句は名句ばかりで、どれがどう、となど凡な者には言えないのであるが、この句は、名句中の名句のひとつであろう。
私の参考書である嵐山光三郎の『芭蕉紀行』によれば、<この句の初案は、「山寺や石にしみつく蝉の声」であった。それが「淋しさの岩にしみ込蝉の声」となり、「さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ」をへて、この句となった>とある。さすがだな、嵐山。
また、岩波文庫の曾良の旅日記に付いている『俳諧書留』には、「山寺や石にしみつく蝉の声   翁」ひとつが載っている。
なお、私の副読本である山本健吉本には、この時の蝉の種類について、斎藤茂吉と小宮豊隆との間で論争が起こったとのことが記されている。茂吉はアブラゼミだと云い、豊隆はニイニイゼミだという。この論争は、後に茂吉が実地調査の結果、その時節(新暦7月13日)にはアブラゼミもいるがニイニイゼミが多いことを発見、シャッポをぬいだ形で決着、今では、小宮説が実説となっている、と山本は記す。ほかに、萩原井泉水はヒグラシではないかといい、中村草田男は茂吉と同じくアブラゼミとしているそうだ。
では、山本健吉自身はどうか、というと、「そんな穿鑿は抜きにして、この作品を、文字どおりに受け取ればよいとおもっている。セミはセミ、岩は岩でよい」と言っている。オーッと、セミの種類ばかりでなく、その声がしみ込む岩の種類についても、いくつもの説があるそうだ。
後世、これだけの碩学、大宗匠連中がガアガアいうのだから、この「閑さや・・・」の句にはそれだけの魔力、いや、とてつもなくデカい存在感があるんだな。深い。
「奥の細道」のような上質のものに触れていると、その対極にある世事などに触れるのは、片腹痛いのであるが、まあ時節なので1行のみ。昨日の都議選、自公過半数割れ、民主大勝。初めっから結果が分かっているデキレースみたいなものだもの。衆院、来週解散、とのこと。