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薄曇り、日中一時小雨。
320年前のこの日(旧暦5月14日)は、<朝天気吉、雷雨のち晴れ、また曇って折々小雨する>(曾良『旅日記』)という、晴れから雷雨までめまぐるしく天気の変わった一日。
その中を、芭蕉と曾良の主従二人は前日の平泉往復から戻った一関から出羽を目指し、この日は岩手山に到る。
今、時刻表で見たら、JRの一関駅から平泉駅までは7.2キロ、また、Google Earthで検索したら一関から中尊寺までの距離は直線で8キロ前後、中尊寺ばかりでなくあちこち寄っているので、往復の距離は20キロ、いや25キロぐらいかもしれない。この日の一関から岩手山までは、それをはるかに超える距離である。しかも不安定な天候の中。驚く。
この日は句を詠んでいない。当たり前だ。長い道中ひたすら歩いていたのだから。
<『細道』の旅は、旅する者の力が問われる>、と嵐山光三郎はその著『芭蕉紀行』の中で述べている。ここでの「旅する者」とは、もちろん芭蕉のことではなく、芭蕉フアン、『奥の細道』の追っかけのことであり、また、「力」とは、感性、センスのことであろう。
世には数多の『奥の細道』関連本があるのだろうが(どのぐらいあるのか知らないが)、なにしろ子供のころから『奥の細道』、芭蕉の追っかけをしていたという嵐山光三郎のこの『芭蕉紀行』は、感性ばかりでなく、実地にその現場に身を置いた強みがあふれており、たいへんおもしろい。頭プラス足だな。
例えばこうだ。一昨日、昨日、つまり、6月28日と29日の2日、旧暦では5月12日と13日の2日、芭蕉と曾良の主従は一関に連泊しているのだが、嵐山も同じ日一関に連泊する。現場に身を置くばかりでなく、時の共有化(320年の時空の隔たりは如何ともしがたいが。いかに芭蕉バカ、芭蕉フリークの嵐山にしても)もはかろうとする。いってみれば、3次元の世界から見ようとするんだな。芭蕉の句というよりも、芭蕉という人を。おもしろいはずだ。
光堂の句についても嵐山は、少し荒っぽく言葉を拾えば、<光堂は黄金装置であり、無常の棺なのである。光堂をたたえつつも、芭蕉は、五月雨が降りそそぎ金箔がはげおちて朽ち果てた光堂を幻視していたことになる>、と記す。踏み込んでるな。320年の時空をひとっ飛びし、芭蕉の脳みその中を覗いている感を覚える。
「奥の細道」の教科書は、岩波文庫の『おくのほそ道』(曾良の『旅日記』も収録されているし)、副読本は、昨日触れた山本健吉訳・解説の『グラフィック版 奥の細道』、そして、この嵐山光三郎の『芭蕉紀行』は、いい参考書だな。私には。