マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ。

3日前、映画に行った。『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』。その何日か前と同じく観客は3人であった。2日前にも映画を見に行った。リュック・ベッソンの『アナ』。この春に封切り予定であったが、新型コロナで封切が今月にずれこんだもの。ウィークデーの昼間であるが、観客は10数人であった。両日ともその後は飲めるところに行った。が、いずれも人は少なかった。
今日も、明日で終わってしまう作品があるので映画を見に行こうと思っていた。が、その前のちょっとしたことに思いの他時間をとられ、行くことができなくなった。最終日の明日には、と思っている。


それはそれとし、1960年代は大きく時代が揺れた、動いた時代であった。
1920年代のローリング’20sに匹敵しうる時代。ローリング’60sとして。世界中で、そして日本でも。
社会で、そしてアートシーンで。
しかし、実は私の60年代は、華やかさや時代の盛り上がり感とは対極の状況にあった。
1941年生まれの私、日本を二分した60年安保の時には国会前にいてもおかしくないのであるが、結核療養所のベッドの上にいた。結核療養所のベッドの上でテンテンや花札を引いていた。
60年の夏、結核療養所を退院したが、安保のうねりは終わっていた。「オレは遅れたな」、という思いを持った。
9月、一番近い早稲田予備校というところへ入った。後で知ったが、早稲田を受ける連中のための予備校であった。その月の模試では千数百人の内、千数百番であった。受験勉強など何もしていないので当然。それでも後ろに100人ぐらいいた。毎月の模擬試験、2、300人ぐらいを飛びこしていった。が、時間は短かった。半年弱しかなかった。早稲田の滑り止めの学部に入った。
3年になった4月、親父が死んだ。
銀行預金なんてものはない、生命保険もない。一銭も金がない。学校をどうするか、考えた。さしあたり奨学金を申請してみよう、と考えた。学部の事務所に行った。
と、何てこと、「君の高校時代の成績が悪すぎる」、という。だから、奨学金は出せない、と。
高校時代の成績なんて悪くて当然。私は高校3年の担任教師とどうしようもない関係にあった。ヘタしたらこの教師、オレを卒業させないかもしれないな、と思ったほど。が、さすがその教師も私を卒業させてくれた。クラス53人中の52番で。長欠がひとりいたのだと思う。
その高校時代の成績がどうこう言って奨学金は出せないという学部事務所の男に、「分りました。結構です」、と言葉を叩きつけた。
食うために仕事を始めた。
その翌年か翌々年か、結核が再発した。結核療養所にまた入院した。肺の一部を切り取り、2年弱で退院した。
学校は遅れに遅れ8年で卒業した。
70年騒動があったが、オレは少しズレてるな、という思いがあった。
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『マイ・ジェネレーション』、監督:デイヴィッド・バッティ。ナビゲーター:マイケル・ケイン。
’60s、オレの暗い時代だな。
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The Whoの”My Generation”。
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マイケル・ケイン、ロンドンの下町生まれ。話す言葉はコックニー。
60年代、下町の労働者階級の連中が表に出てきた。
”My Generation”のThe Whoしかり、ビートルズしかり、ローリングストンしかり。
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ロンドンへ初めて行ったのは1980年、
イランイラク戦争が始まったことをロンドンで聞いた。
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左側はマイケル・ケインだ。右側にはツィッギー。
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ツィッギー、’60s。