フジコ・ヘミングの時間。

夜来の雨、昼過ぎまで降り続く。
寝床の中で樹々に当たる雨音を聴くのは心地よい。
昼近く、窓の外、雨が降りしきる光景を見る。大小の樹木の葉は、濡れて光っている。幹や枝は、その肌色を深くしている。
雨の中を歩くのが好きだった。しかし、杖をつくようになってそれは少し難しくなった。できぬことではないが、傘と杖、相性がよくない。
部屋の中で、窓外の雨の走りと音を楽しむ。


クラシックの日本人ピアニストは数多くいるが、今、世間一般によく知られている人は、辻井伸行とフジコ・ヘミングのふたりではなかろうか。
このふたり、年代はずいぶん離れている。が、キャラが立ったその魅力、人を引きつける。
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フジコ・ヘミング、おそらく1931年か32年に生まれている。ということは、今は80代後半、90が近い。
父はスウェーデン人デザイナー、母は日本人ピアニスト。ベルリンで生まれ、後日本へ。が、その内、父親は日本を離れる。母親は、ピアノを教えながらフジコをも鍛える。スパルタ教育、娘を厳しく鍛えた、という。戦争中は合いの子といじめられた。東京藝大へ入る。成績優秀。留学を考えるが、金がない。やっと金の問題も何とかなるようになったら、大問題が発生する。
なんと、フジコには国籍がなかった。父親の母国・スウェーデンに住んだことがなかったので、ということのようだが、何と何と。
やっとベルリンへの留学が叶ったのは、20代後半、30も近くなってから。無国籍旅券で。ドイツ大使館のサポートがあったらしい。
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『フジコ・ヘミングの時間』、企画・構成・撮影・編集・監督:小松莊一良。
小松莊一良、フジコ・ヘミングを2年間追っかけたドキュメンタリー。
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フジコ・ヘミング、ヨーロッパでも認められていく。バーンスタインの後押しでということになる。
ところが何と、その直前、耳が聴こえなくなる。ピアニスト、演奏家としての道は閉ざされる。フジコは、ピアノ教師として生きていく。
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フジコ・ヘミングが世に知られるようになったのは、1999年のNHKのドキュメンタリー番組。
うろ覚えであるが、私も見たような気がする。
それよりも、まだ20年ほど前である。フジコ・ヘミングは、60代後半、70に近くなっていた。
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それからの快進撃は凄い。
今では、年間約60公演を行っているそうだ。世界中で。
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フジコ・ヘミング、世界中あちこちから引っ張りだこなので、あちこちに家を持っている。ベルリン、パリ、アメリカ西海岸、東京、京都。
これはパリであろうか。
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フジコ・ヘミング、犬や猫が好き。可愛がっている。
「若い頃は、人間の伴侶を」と考えていたこともあった、とフジコは語る。
しかし、「みんな禄でもないヤツばかりだった」、と続ける。
「妥協する」なんて言葉、フジコ・ヘミングの辞書にはないんだ。
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お待ちかね、「ラ・カンパネラ」でこのドキュメンタリーは幕となる。
「精神では誰にも負けない」、というフジコ・ヘミングの「ラ・カンパネラ」で。
やはり、いい。聴き惚れる。


昨日、小池百合子が都知事選再選への立候補表明をした。
「東京アラート」がどうとかこうとか、勝手気ままに人々を操っている。東京の皆さんもそれに乗っている。ポピュリズムの典型。
二階俊博など、自民党として小池百合子を推薦しないとしたすぐ後、「推薦するとかしないとか、そんな形式的なことより、応援するべきだ」、と語っている。自民党幹事長としてこれでいいのか。大いなる矛盾である。
東京の小池百合子を凌ぐ全国区の地方首長は、大阪の吉村洋文である。
ともかくもたもたしている政府の前を前を、と突き進む。「大阪モデル」がどうこう、と。知事と市長の間柄がよくないのが通常であるのに、大阪の場合は相方の松井一郎との関係はいい。むしろ、松井が吉村を支えている。阪大を核としたオール大阪の力で、新型コロナのワクチンを秋までには作る、なんてことも言っている。
たしかに、カッコいいし、受けはいい。大阪の皆さんは、「吉村、いいぞ、突き進め」、と気持ちよくしているであろう。
しかし、よく考えてみると、これも典型的なポピュリズム。
東京と大阪、東も西も、なんだかイヤーな予感がする。
今日昼、NHKEテレ「こころの時代」に辺見庸が出てきた。
辺見庸、死んだとは聞かなかったので生きているとは思っていたが、久しぶりで顔を見た。
杖を使っているので、と語っていた。元々語り口は滑らかではなかったが、今日はつっかえつっかえという感じがあった。ひょっとして脳の何らかの疾患にかかったのではないか、と思われた。
それでも辺見庸、辺見庸らしい言葉を発していた。コロナの時代の今について。
貧困の問題、いずれ葬られるであろうがトランプについて、新自由主義についても。
新自由主義については、少し前から私も興味を持っている。新自由主義の罪について。
小池百合子にしろ、吉村洋文にしろ、彼ら彼女らは意識していないにしろ、新自由主義の枠内での行動。
革命はもとより、革新にもほど遠い。