オホーツクふらふら行(6) 彦市老人。

<留守番さんーーというのがこの老人、村田彦市に与えられた今の仕事だった。彦市はことし七十一。もう人生も終りにきていて、海に出てゆけないほどに老耄れている。しかし子供の時からオホーツクの海で鍛えた彼の皮膚は老人になっても赤銅色の光沢を帯びて光り、骨組みはがっしりしていた。・・・>。
<老人はこの仕事を天職だと思っている>。
知床を離れ網走へ行くのに、この作品に触れないわけにはいかない。
戸川幸夫著『オホーツク老人』(昭和56年 立風書房刊 「北海道文学全集 第18巻 国境の海」所載)である。
1400~1600メートルの山々が連なる知床半島の形成から記されるが、何といっても村田彦市というオホーツクに生まれ、オホーツクで死んでいく老人の哀しい人生に涙する。


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上の画像は、知床を離れた翌日、網走の流氷館の展望台から眺めた知床の山々。
オホーツク老人・村田彦市、知床のウトロで生まれたが、今は半島を横切った羅臼に住んでいる。ひとりで。
女房や3人の息子たちを次々と亡くす。で、漁師たちが次々と引きあげた番屋の留守番さんとなっている。
<オホーツク海は秋になると荒れはじめる。羅臼の漁村から一家を挙げてやってきた昆布採りの漁師たちは、九月に入ると鍋や窯やストーヴや犬や猫を集荷船に押し上げて早々に去ってゆく。・・・・・。昆布採りの一家が帰ってゆくと次に引揚げるのは漁期を終えた鱒漁師たちだ。・・・>。
<海は一日一日と荒れ、オホーツク海を渡ってくる烈風は寒いとか、冷たいとかいう限界をもうとっくに越している。・・・>。
<雪は十月の末に来た。彦市老人の番屋は・・・>。
小さな番屋の人たちは引揚げる時、漁具を持ち帰るが、大きな番屋では漁網や漁具を持ち帰ることは不可能。その漁網や漁具を鼠の食害から守るために、猫が必要とされる。その猫に飯を食わせるために人間が必要だった。<留守番さんの制度はこうして出来上り、・・・>、ということなんだ。
留守番さんは、こうして知床の厳しい冬を猫とともに一人番屋で過す。
彦市老人は、長男を小さい頃に海で亡くす。次男は道楽者で酒と女と喧嘩が好きだったが、・・・、開戦の前年兵隊にとられ、小さな石っころひとつとなって帰ってくる。
ある冬、女房が高熱を出し、酷い状態となった。ウトロから知布泊を経て汽車の通じている斜里まで、泥流と溶岩流の大懸崖が至るところにある道を進む。綿のはみ出た布団が敷かれた橇を引いて。屈強な6人の男の協力を得て。が、オシンコシンの鼻で女房は息絶える。女房の亡骸はそこに埋める。
<「おかつは択捉(エトロフ)で生れて、オシンコシンで埋った。都会を知らずに一生を終えたが、せめて札幌ぐれえ見物させてやりたかったな」 老人は呟いた>。
何時だったかこの「流山子雑録」に記した覚えがあるが、今でも北海道の僻地で人に行きあうと、旭川か札幌で、でき得れば東京で2、3年過ごさせてやりたいな、と思う。特に若い人たちと行きあった場合には。
家族のいなくなった彦市老人、東京の工場にいる三男を呼び戻す。ウトロへ。そして、事情あり羅臼へ。
この三男は生真面目な男なんだ。酒や女とは縁遠い。結婚も自分の船を持ってから、と。7人が乗組む漁船を持つが、天候の激変で船は転覆、凍死する。
ある時、厳寒の海を若い娘が渡ってくる。小さな漁船を作る時、網走に行っていた三男の恋人であった。が、彦市老人は自分がその男の父親だと名乗らない。
<異性の肌も知らずに死んだ三男を哀れと思っていたが、謙三にはこんないい娘ができていたのか。彦市老人の頬に、やっと晴々した微笑がうかんだ>。
しかし、彦市老人もそれから暫らくして死ぬ。
飼っている猫の中、老耄れの一匹が氷盤に乗って流されかけた。それを助けようとして氷の海に落ちてしまい、氷の塊りに何度も打ちつけられる。傷だらけになりやっと這いあがるが、鼓動はだんだん微かになっていった。<眼ざとい鴉が・・・、くびくびと咽喉を鳴らした。黒い喪服の参列者たちは、・・・>。
オホーツク老人・村田彦市、こうして一生を終える。
知床の物語である。


この物語をもとに映画・『地の涯に生きるもの』が作られ、あの得も言えぬ歌・「知床旅情」が作られた。
森繁久彌の作詞、作曲。
最初は『さらば羅臼』とされたが、それが『知床旅情』となった。森繁久彌らしい叙情歌である。知床での生き死にの物語ではない。あくまでもモリシゲの叙情であり、抒情。
やはり森繁久彌による同曲への詞・『オホーツクの舟唄』の方が趣きがあろうか。